自作解題をすることについて

自作解題をやろうと思う。

というのも、今回書いたもの(中年終末野球 - 鯨のはんげき)は自分なりに満足いった部分もあれば経緯上不満足なものにならざるを得なかった箇所もあり、両者が共存していて、結局何をしたかったのか、誰にも伝わったいなかった気がしたからである。

もっとも、創作なんてそもそもが一発ネタ・出オチのつもりで始めたことだし、自分一人でやってりゃ誰にも文句も付けようがない究極的に自己満足な行為にすることもできる行いなのだが、年末だし総決算ということで何か書いてもいいだろうという気にもなった。

そもそも自作解題というのは一般に品のない行いだとされているが、結構人の書いたものを読むのは好きだったりする。見えたものと裏側の構造との答え合わせが、隙間を感じて何かを得た気になることがある種の快感に導いてくれたりもする。

 

✳︎

 

そもそももっと長いものになるはずだった。あまりにも短い。読んだら分かるがセリフばっかりだ。下スッカスカやで。

というのも、今回出来上がった代物は、本来想定していたプロットの骨子だけを取り出し、感情の掘り下げを最低限にして、雰囲気だけで何かを言った気になったことにした、誤魔化しの化物みたいなものになっているからだ。

では、なぜプロットそのままで書かなかったのか。

実際に書いていたのだが、途中で鬱になって日常生活に支障をきたし始めたのでストップを掛けたというのが答えで、あまりにも辛くなってやめた。私小説に非リアリズムを持ち込んでみる、という当初の企みの意味からして、自らの中にあるテーマを消化し、一応の結論を提示する必要があったのだが、それが非常に困難を極めた。無理だ。

一貫して自分の中にあるものを書いてきた。分解して再構成することもあったが、大抵は直球勝負を仕掛けた。三人称にすることで「自分のことではない」エクスキューズを掛けながらも、自分の身を削って書くことしか書き方を知らない。その書き方については疑問があり、今年の春に書いたものではそこから離れた書き方を模索して、同時にどこまで枚数を膨らませることができるのか挑戦した……けれども、どうにも嘘くさい。人間の底を割れていない。書きたいものではあったが、本当に書きたいものではなかった。

やはり直球を極めるべきだと決意して臨んだこの大一番、結論から言えば敗北だ。大敗北。もっと人生に真剣に向き合う必要があると思った。

 

ただまあ、テーマとして「家族」「無意味な儀式と化した社会儀礼」を書くこと、そのメタファーとして「無限に続く試合」を使うこと、この2点をクリアすることは出来るだろうと思って、書いた原稿を全部捨てた後も悶々と考えていた。

するとある時、全く違った形で書く方法を思い付いた。正に天から降ってきたように思えた。

その時、僕の頭にはコマが見えた。漫画のコマだ。当時僕は黒田硫黄にどハマりしており、講義中もずっと『茄子』や『大日本天狗党絵詞』を読み耽っていた。

すると黒田硫黄のあの筆のタッチで描かれたコマが、ネームが、セリフが、頭にありありと浮かんできたのだ。僕は慌てて、消えないうちにセリフだけをノートに書き写した。

だから今回の話は全てセリフが先にあった。セリフの間の地の文を埋めていく形で書いた。

意外と上手くいった。

黒田硫黄の良さというのはその軽みと洒脱さで、登場人物一人一人の内面が確固として存在しているように思えて、なおかつ作者のエゴを全く感じさせない、脱臭された距離感がその魅力だと思っている。僕は黒田硫黄の力を借りて、私小説的な作者のエゴから登場人物を解放させることができた。

だがその分、感情を掘り下げることはままならなかった。「人間の底を割る」こればかりここ数ヶ月一人で呟いているのだが、そもそも底になど到底到達し得ていない。

本当は小林恭二的な、もっと言えば「ゼロ年代の臨界点」や『ゼウスガーデン衰亡史』的な架空歴史を盛り込むはずだった。天皇制も絡めるはずだった。エンタメの常道としてタイムリミットを設けてそれまでに一悶着起こさせるはずだった。

でもできなかった、今の僕には家族の問題というのは到底一人きりで今すぐに結論を出せる話ではない。今なお目を背けて生きている。

時間が解決することだけを祈ってただ僕は日々を素通りさせている。父がいなくなったら部屋は僕が接収して今はホームシアター代わりにしつらえた。これからどうなるのか、誰にも分からないし本当は関わりたくもないのだが、依然現実の問題として押し寄せその圧力をこれを書く今ですら感じないではいられない。

 

さあどうする、織部やすな

 

ふざけている場合ではない。でも助けてほしい。これを書くことで何らかの岩盤が崩されてくれることを祈る気持ちがないと言えば嘘になる。嘘はつかない。昨日読んだ藤枝静男の「空気頭」にも、露悪的に虚の自分の振る舞いを記述することで私小説の枠を打ち破ろうとする試みがあった。これが何の足しになるのか、恐らく何にもならない、けれど書かずにはいられない気がした。

2018年は気持ちを素通りさせることなく、真剣に向き合う覚悟で生きようと思う……が、高校生の時にそれで大クラッシュを起こした身としては足がすくんで仕方がない。なあなあで生きる道を選ぶべきではないのだろうか。答えは未だ出ない。出たら書く。