中年終末野球

 十六歳の頃、私はあの球場へ行ったことがある。
 どこに根を張っているのか、外壁に生い茂り壁の色をほとんど消してしまっている蔦。アスファルトに入った亀裂を踏み越えながら、私は入場門をくぐり抜けグラウンドを一望した。

 何の表示も浮かべないスコアボードや根元から折れた巨大なナイター用照明、錆びて朽ち果てたオンボロフェンスは、この球場が既に廃墟であることを何一つ言葉を使うことなく雄弁に物語っていた。
 私は内野席の一番打席に近いところ、いわゆるバックネット裏に一人の男が座るのを見かけた。
「何してるの」
「スコアブック付けてるの、見りゃ分かるだろ」
 男は透明のボールペンと黒表紙の帳面を持っていた。口元の髭は珍しくも几帳面に整えられていた。
 廃墟に見えた球場だったが、グラウンドをもう一度よく見ると、確かにユニフォーム姿の選手たちが内外野に散ってめいめいが捕球体制を取っていた。
 そして打席にはヘルメットを被った打者やプロテクターを付けた捕手の姿があった。確かに野球だ。
「いつもいるの」
「まあな」
「家ここ?」
「まさか」
「暇なの?」
「そっちこそ」
 男が銀縁の眼鏡越しに私の方を見ていた。
 促されるように私は男の隣の座席に座った。

「いつから付けてるの」
「そうだなあ、趣味だからなあ」
「覚えてない?」
「気が付いたらここにいた」
「普段は何してるの」
「畑仕事」
「食べてけてるの」
「心配されずに済む程度にはな……おい、さっきの打球どこに飛んだのか分かんなくなっちまったじゃねえか」
 コキンと小気味良い音が響き、男の頭越しに一塁ベース上へと走る選手の姿が見え、咄嗟に出鱈目が口をついて出た。
「なんか右のほう?」
「ライトか? セカンドか?」
「ここから遠いほう」
「ライトだな」
 男はボールペンをクリックして、何らかの記号を帳面の上に記した。
 私にはその所作がひどく退屈なものに見えた。
「付けてて楽しい?」
「まあな」
 男は再び帳面に向かいページを繰った。
 記入が繰り返される間、私は黙って男の手元を見ていた。男は何も言わなかった。

 しばらくすると、散っていた選手たちがぞろぞろと集まり、皆一様に帽子を脱いだ。彼らは無人の外野席を一瞥してひとしきり手を振ると、グラウンドからベンチへと戻った。最後の一人がベンチ裏へと下がると、グラウンドには薄闇と茶色の土しか残らない。
 男は席を立った。
「もういいの」
「いいのさ」そういって男は一つ伸びをした。「いつでもやってるから」
「わたしお腹空いた」
「うち来るか、何か作ってやるよ」
「やった」
 男は口角を微かに上げながらフライパンを上下に振る真似をしてみせ、その仕草は不思議と素直に受け容れられた。
 
 男の家は球場を出てすぐのところにあった。
 家のそばにはこじんまりとした畑が広がっていて、緑色の葉が土から顔を覗かせる。
「食ったら帰れよ」
 帳面とボールペンを食卓に置いて、男は台所へ向かう。部屋の端には紐でくくられた黒表紙の帳面が山になって置かれていた。
「いやって言ったら怒る?」
「まあな」
 私は食卓の椅子に座り、料理をする男の背を眺めていた。

 男が鍋を振ると、食卓の匂いがした。
「お父さんがいなくなったの、急に」
「うん」
 運ばれてきた野菜炒めを向かい合わせに食べながら、男は相槌を打つ。
「私のお父さんになってくれない」
 男は皿から目を離さなかった。
「バカ言え」
「バカじゃないよ」
「永遠に続くものなんてないだろ、たとえ家族でも」
「野球も?」
「あれは別」
 食べ終えた皿を男の分も洗って私は家に帰った。
 父はいなかった。 
 

 次の日、私はまた球場を訪れた。男も相変わらずバックネット裏に陣取ってスコアブックを付けていた。
 しばらくはまた男の手を見ていた。私の華奢な手ではない男の手だった。
 こうした日々を何日も繰り返した。私には球場以外の居場所はなかったから。

 ある日、男が立ち上がった。
「野球してみるか」
「いいの」
「いいよ」立ち上がった男はグラウンドに声を掛けた。「おい代わってくれ」
「あいよ先生」
 グラウンドにいた選手が手を振って応えた。
「先生って呼ばれてるんだ」
「まあな」
「何で?」
「勝手に呼んでるだけだ」
「嘘」
 ベンチに置いてあったユニフォームに着替えて、私と男はグラウンドへ向かった。
 グラウンドへ降りてみると、荒れ果てた土の様子にここが廃墟であることを再認識させられた。名も知らぬ雑草が三塁ベース付近に繁茂しているのがネクストバッターズサークルの近くからよく見えた。
 しばらくの間、試合を観察して気付いたことがあった。
「みんなわざと点を取らないようにしてるのね」
「儀式だからね」
 私は男のスコアブックに得点が記入されたところを一度も見たことがなかった。得点圏にランナーが進んだと見えたら毎回空振りの三振。決して柵越えのホームランなどあり得ない。ずっと0。何があっても0。そして休みなく試合は続く。
 男の帳面の左上には現在が何回のイニングなのか記入する欄があった。いつ見ても空欄は大幅に超過され、記される数字は十桁を超えていた。
 回数を重ねるごとに擦り切れる意味は無意味な殻しか残さない。儀式だった。
「私がホームラン打ったらみんな怒る?」
「どうだろうな」男はバットのグリップを握りながら言う。「案外せいせいするかもしれない」
「茶番なのね」
「そう悪く言うなよ、役に立つ茶番もある」
「家族とか?」
「そう」
 私は男からヘルメットとバットを受け取り、打席へと向かった。
 
 マウンドにはグローブを付けた男がいた。黒帳面とボールペンがズボンのポケットに突っ込まれ、はみ出しているのが見えた。
 投球練習をしながら男は話し続ける。
「兄弟は?」
「弟が二人」
 男の投げた球がキャッチャーのミットに収まる。
「お母さんを大事にしろよ」
「儀式だから?」
 キャッチャーの返球を男が受ける。
「それで納得するならな」
「明日もここ来ていい?」
 規定の球数を投げ終え、審判のプレイの声が掛かる。男が振りかぶり、私はバットを今一度強く握り直す。
「やめとけ」
「そう」
 私は思いっきりバットを振った。
 バットは私の手をすり抜けて男の頭をめがけて真一文字に飛び、茶色の土の上に赤い鮮血が点々と散った。
 男の投じた球がキャッチャーミットに収まり、審判は右手を高々と上げた。代わりのリリーフ投手がほどなくマウンドへやってきて、男の死体はベンチ裏へと下げられていった。
 試合は続き、私は空振り三振をして打席を後にした。

 その後しばらくして、路地の屋台にハードカバーに製本されたスコアブックが陳列されているのを見かけた。英字の題名が記された雑誌類と並んで置かれていた。折り返しの著者近影には、球場にいたあの男が描かれていた。
 男は例の儀式を記録する仕事が本業だったのかもしれないと私は思った。
 だが私には、私の茶番を記録することはついぞできなかった。

中年終末野球 完