筒井康隆『パプリカ』について

書いていたら所定の文字数よりもかなり長くなったので。どうしようか。結局昔の思い出話を枕に使うつもりが、思いのほか長くなっただけの話なので、全部削ればいいんだとは思うけど。

 

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パプリカ (新潮文庫)

パプリカ (新潮文庫)

 

 

 個人的な話で恐縮だが、ぼくが映画『パプリカ』を観たのは高校二年生の時、修学旅行でシンガポールへと向かう機内でだった。
 その時、ぼくは筒井康隆こそほぼ全作読んでいたけれど(プロフィールに書くようないわゆる「好きな作家」だったから)、アニメーション監督としての今敏の名も、ミュージシャンとしての平沢進の名も知らなかった。
 帰国後、ぼくたちは旅行の感想文を書かされた。それは一冊の黄色い表紙の本として綴じられた後に修学旅行文集として配られ、今も家に残っている。
 マーライオンについて、猥雑なチャイナタウンについて、あるいは厳しく照りつける熱帯の陽射しについて書かれた文章が並ぶ中、ぼくの感想文は全編、映画『パプリカ』がいかに素晴らしいか、という内容で占められていた。
 もちろん、皆と同じことは書くまいという青臭い自意識、あるいは、ぼくも関西人だから、友達からの”ウケ”を狙うための冗談が動機の半分だっただろう。だが、もう半分は紛れもなく『パプリカ』に対する感動がなしたもので、それから数年が経ち当時の自分を少しは客観視できるようになった今でも、『パプリカ』に対する評価は変わらない。ぼくにとっては、風光明媚な観光名所やエキゾチックな雰囲気と、『パプリカ』の素晴らしさは、どちらも同じ程度には人に伝えたくなるものだったのだ。
『パプリカ』は、筒井康隆の十八番であるところの精神分析や夢をメイン・テーマとして打ち出した作品だ。他人の夢を映像化してモニタリングし、介入することで精神疾患を治療するPT技術が発展した近未来。精神医学研究所に勤める千葉敦子は、同僚の時田浩作とともにノーベル生理学賞の有力候補とされている優秀な研究者だが、彼女には「夢探偵・パプリカ」としてのもうひとつの顔があった。すなわち、公に治療を受けられない有力者からの依頼を受け、彼らの夢へと侵入することで無意識下の抑圧を探し出し神経症を治癒へと導くのだ。
 新潮文庫版の解説で斎藤美奈子が指摘している通り、『パプリカ』は物語全体が夢を模した構造になっている。「今の時間(引用者注・深夜二時頃)に見る夢はだいたい短いんだけど、情報が凝縮されてるわ。芸術的短篇映画ってところかな。朝がた見るのは一時間ほどもある娯楽的な長篇特作映画」という千葉敦子=パプリカの言葉通り、第一部では社内政治に巻き込まれる能勢や、警視監にまで出世しながらも家庭内の不和に悩む粉川、あるいは精神医学研究所内での研究者同士のいがみ合いなどがSF的な奇想抜きで展開されるのに対し、第二部では最新のPT機器・DCミニを巡り、人の夢から夢への往来、あるいは夢から現実への干渉といった超現実的な事件が多発する。また、一度の睡眠で起こるレム睡眠は通常四、五回とされているが、物語内部で起こる夢も五回とそれに対応しているのも傍証となるだろう。
 印象的なのは、最後の場面での能勢の台詞だ。ジーン・ウルフの名作「デス博士の島その他の物語」の結末部、「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも獣人も」を思い起こさせるような、本あるいはフィクションというものへの言及。読者へ、読書という夢から醒めるよう静かに誘導するかのようなその後のエピローグも含め、『パプリカ』全体が夢のメタファーであることは間違いない。こうなると、いささか男性に対して都合の良すぎるパプリカのキャラクター性、女性性も「夢だから」という逃げを打てることを見越して意図されたものなのだろうと、悔しいが結論付けなければならないだろう(当時の連載誌が女性誌であることにも注目せねばなるまい)。
 だが、『パプリカ』を読むこと自体が夢を見ることのメタファーだとすれば、我々はどうすればよいのだろう。
 ウルフが「デス博士〜」で描いたのは、フィクションによる現実逃避の肯定だ。辛い現実を生き抜く少年に対して与えられるフィクションの癒しの作用をウルフは描いた。
『パプリカ』も同じだ。能勢が夢でのパプリカのとの再会を確信するように、我々も本書を開けばまたパプリカに再会できる。それがこの物語の良さでもあり、同時に限界でもある。山形浩生は「デス博士〜」を評してそれ自体として閉じた静物画的な世界と言ったけれど、この言葉はこの物語に対しても当てはまってしまう言葉だろう。
 ぼくは修学旅行文集を数年ぶりに開くことで、昔のぼくと再会した。『パプリカ』にしても修学旅行の文集にしても、本自体、そこに書かれてある文章は変わらない。
 けれど、読み手であるこのぼくは少なくとも変わり続けているはずだ(現に、当時の青臭さは今だとちょっと厳しい)。そんな中で、かつての自分を否定することなく、昔のぼくも今のぼくも両方が素晴らしいと思える作品に出会えたこと、それ自体は大変喜ばしい、めったにないことなんじゃないか? それこそ、物語が物語として真に優れている証拠だと言えるかもしれない。
 夢と現実の重なり合う悪夢的な世界、ディック感覚(便利な言葉だ!)が本書の魅力なのかもしれない(同時に、それらを卓越した映像美で表現した今敏の映画版の魅力も)。だが、物語をなぜわれわれは求めるのか、というテーマをも考えさせられるあのラストの余韻こそが、最大の魅力なのではないだろうか。