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『STAND BY ME ドラえもん』は「感動装置」か?

iseyan93.hatenablog.com

 いせやん氏(id:Iseyan93)の『STAND BY ME ドラえもん』エンディングについての考察が、やっぱり自分の中では腑に落ちなかったので、自分なりの感想及び解釈を書いておくことにする。
 そもそもの問題は映画の最後、スタッフロールと共に流れるエンディングの演出についてだ。
 このエンディング、先日のテレビ放送版ではばっさりとカットされてしまっていたのだが、実はとんでもないどんでん返しが仕掛けられていた。

メタフィクショナルなエンディング

 それは「今までの本編は全てドラえもんたちの撮影した劇中劇だった」という仕掛けである。具体的には本編シーンのNG集、昔のジャッキー・チェン映画や最近のピクサー映画に見られるようなものがスタッフロールと共に流れる演出であった。
 最後の最後に唐突に挿入されたこのメタフィクショナルな演出を巡っては賛否両論、どちらかと言えば「否」が多いようだが、一般的な「否」の反応としては、

「単なるピクサーの真似」

「最後の最後で今までの感動がぶち壊しにされた」

という2つが、ざっとネットを漁ってみて見つかる。
 しかし、いせやん氏はこれを「5人の物語」として成立させるための仕掛けだとし、このエンディングが始まってホッとした、と言う。
 だが、やはり納得出来ない。
 「5人の物語」と言うが、わざわざ映画で追加された「成し遂げプログラム」の存在や、ストーリーのプロットを考えると、ぼくにはこの映画は「のび太ドラえもんの物語」、あるいは「のび太の物語」として作られているように感じる。
 「成し遂げプログラム」については、ストーリーを円滑に進めるための小道具かつ原作や98年版の映画では明らかにされていなかった「ドラえもんが帰らなければならない理由」の具体化という一面もあっただろうが、のび太の世話を義務的なものから自発的なものへと変化させる友情の形成過程を尺の中で効率よく描くための手段だったとも思う。

 ストーリーも、採用されている短編はいずれも「のび太の成長」を描くものだ。

 だから、この映画は「のび太の物語」なんだと思う。普段の大長編は「5人の物語」かもしれないが、本作はまた異なる軸を持っている。

 さて、少し話が逸れたが、エンディングについて。
 実際、僕も昨年劇場で鑑賞し、このエンディングが流れた時には」
「最後の最後で今までの感動がぶち壊しにされた」
と思った。
 なぜ今になって、「感動の物語」だった映画を「偽物」にしてしまうのか?
 これはスクリーン上に展開された物語に本気で、マジで感動していた観客への裏切りではないのか?
 なぜ、昔の思い出の楽しさの中にずっと浸らせてくれないのか?
 なぜ、「夢」を終わらせ、「現実」へ帰らなければならないのか――

 ここまで考えたところで、ふと既視感を覚えた。同じように、「現実へ帰れ」という強烈なメッセージを投げかけられた映画のことを思い出したのだった。

 

エヴァ旧劇を思い出した

 ぼくが思い出したのは、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」の終盤、観客席に座ったオタクをスクリーン側から写した有名なシーン。

 このシーンは監督・庵野秀明からの強烈なメッセージだった。

 テレビ放送版で伏線や謎をほとんど丸投げして終わってしまった(これが意図的なものだったかどうかは微妙なところだ。今で言う「炎上商法」を狙ったフシもあったのだろう)エヴァだったが、オタクたちは考察をやめず、結局公的抑圧に負け、庵野秀明は丸投げしたTV版の最後2話を改めて作り直すことになる。

 シンジの「ねえ、夢って何かな?」の問いをきっかけにして、対話のかたちで「夢」と「幸せ」と「現実」が語られる。「都合のいい造り事で現実の復讐をしていたのね」「虚構に逃げて真実を誤魔化していたのね」「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせ」とレイは云う。画面には『エヴァンゲリオン』を観に劇場に来た観客が映し出されて「気持ち、いいの?」というテロップが出る。ここまでの物語の筋道を考えれば「都合のいい造り事」や「虚構」は、シンジが自分の中で幸福な思い出を反芻する事と解釈できなくもない。だが、僕達はそれを素直にアニメの事だと解釈すべきだろう。
 「じゃあ、僕の夢はどこ?」というシンジの問いに「それは現実の続き」とレイは応え、「じゃあ、僕の現実はどこ?」には「それは夢の終わりよ」と応える。夢は現実の中で見つけるべきものであり、「都合のいい造り事」が終わったところに現実がある。「それは夢の終わりよ」の台詞と同時に、ファンに悪戯書きをされたGAINAXの社屋、『エヴァ』の感想が書き込みされたパソコン通信の画面、そのプリントアウト、「庵野、殺す!!」の文字が表示されたモニターが、画面に映し出される。そして、巨大綾波の首から鮮血が迸る。すなわち、ファンがTVシリーズ終盤以降の展開を不満に思った事こそが「夢の終わり」なのだ(正確には、ファンと作り手のシンクロ率が落ちた事が、結果的に劇中の「夢の終わり」を招いたと云うべきかもしれない)。『エヴァ』の快楽原則の象徴たる綾波レイも、その身体が崩壊していく。皆、現実に帰れ。あまりにも直接的なメッセージだ。

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  この強烈な「現実へ帰れ」というメッセージ、それと同じものをぼくは「STAND BY ME ドラえもん」のエンディングでも感じてしまった。

 

なぜ「思い出」は破壊されなければならなかったのか?

 本作が親層、つまりかつてドラえもんを見て育った大人層を対象にしていることは、「すべての、子ども経験者のみなさんへ。」というコピーからも明らかだ。

 彼らをかつての思い出へ、ノスタルジックな風景へ連れて行くこと。「ドラえもん」を通して、子ども時代を振り返ること、そして大人になった自分を見つめ直すこと。それが、本作のテーマであり、狙いでもあろう。

 だが製作陣は、観客に過去に安住することを許さない。最後の最後で、観客は自らの現実、自らの「大人」を、NG集というメタフィクショナルな演出によって意識せざるを得ない。映画で描かれた物語は全て虚構にすぎないことを、劇中のカメラは痛切に物語る。

 「エヴァ」では直接観客を映し出す、つまり直接「現実」を露呈させていたが、「STAND BY ME」では、劇中劇というワンクッションを置きつつも、逆説的に「現実」を浮き彫りにしている。これは、物語に深く感動し、感情移入していた人ほど効果が高い演出だ。だからこそ、製作陣は「意地悪」だと思う。

 映画が終われば、夢も終わる。夢が終われば、現実に帰らなければならない。

 夢は「都合のいい造り事」でしかない。

 劇中で、未来ののび太が、子ども時代ののび太に向かって「ドラえもんは、君の、ぼくの子どもの頃の友達だからね」と言う。

 かつて見た「ドラえもん」は子ども時代のものだ。今大人になって、ひょっとしたら子どもを連れて映画館に見に来ているかもしれない。そして、映画を見て、子ども時代のことを思い出すかもしれない。

 でも、もう「ドラえもん」は観客のものではない。観客は大人だ。「ドラえもん」は子どもの頃の友達であって、今の友達じゃない。大人は大人であって、仕事なり家庭なり、現実に戻っていかなければならない。思い出の中にずっと住み続けるわけにはいかない。

 そんな製作陣からのメッセージを、ぼくは感じ取ってしまった。

 この年になってまでドラえもんを引きずって、毎年映画も見に行って、こんな文章まで書いているぼくにとって、正直すごく残酷な言葉だった。

 さっきの「否」の意見のように、「単なるピクサーの真似」であったらどれほど良かったことか……。

 

 この映画はただ金を払って「ドラ泣き」するための「感動装置」ではない。

 大人はもう子どもには戻れない、そのことを痛切に突きつけてくる残酷な、しかし単なるお涙頂戴で終わらない、よい映画だと思う。