『ひみつ道具博物館』に見る『大長編ドラえもん』の極北 

 2012年公開の映画ドラえもんドラえもん のび太ひみつ道具博物館』は様々な面で異色な作品であった。冒険感の希薄、明確な悪人の不在、普段取り上げられることのないドラえもんのび太間の友情を主軸としたテーマ……。

だが、私含めドラえもんファンは今までの『大長編ドラえもん』にはなかった面白さを感じ、目からうろこの落ちる思いだったことであろう。

本稿ではその特異性を『大長編ドラえもん』シリーズ全体の流れの分析とともに述べる。

大長編ドラえもん』の傾向

 そもそも通常の漫画『ドラえもん』は金曜日の19時から放映されているTVシリーズの印象そのままの生活ギャグ漫画である。ぐうたらな少年・のび太のもとへやって来た22世紀の猫型ロボット・ドラえもんがポケットから出す珍道具によって巻き起こされる事件を描くことが主で、作者自身も

「主題は、その珍道具が日常生活に巻き起こすナンセンスな影響にあります」*1

と述べるように、のび太たちの過ごす日常空間を基盤とした物語である。

 だが『大長編ドラえもん』では非日常的な舞台が設定され、そこにのび太たち登場人物が投げ込まれる構造になっている。例えば第1作『ドラえもん のび太の恐竜』では恐竜が栄える古代、第2作『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』では地球から遠く離れた開拓星が舞台になっており、この他にもジャングル、魔界、海底、地底、夢の中……など、基本的な非日常的舞台は網羅していると言っても過言ではない。

 この非日常的舞台の中で、のび太たちは命を懸けた冒険をし、ゲストキャラクターとの友情を深め、最後にはまた日常へと再帰していく。これが一般的な大長編ドラえもんのフォーマットである。

 最後に述べた「最終的な日常への回帰」が、通常の連載における『ドラえもん』と『大長編ドラえもん』の断絶を埋めるものとして、最も重要である。作者自身が『大長編ドラえもん』での約束事として

「どんな大事件が起きても、それはなるべく仲間内で解決し、回りの一般社会に、一切影響を残さないということです。これはそもそもドラえもんシリーズが『日常性の中に乱入した非日常性』の面白さを狙って描かれているからです。つまり、どこにでもありそうな町の、ありふれた家族の中でこそ、ドラえもんや彼のポケットの道具が目だって活躍できるわけで、この環境の日常性は絶対に壊すわけにはいかないのです」*2

と語るように、日常性の絶対的保障があるからこそ非日常的空間での同一キャラクターの存在に違和感を感じさせないのである。またこれは逆説的だが、同時に非日常的活劇が日常性を補強してもいる。

 大きな括りでの『ドラえもん』に、空き地や学校といった日常を舞台にする『ドラえもん』と、宇宙や海底などを舞台にする『大長編ドラえもん』が同居できているのは、帰るべき場所としての日常が保証されているからなのである。 f:id:ginjari:20150812002628j:plain

ひみつ道具博物館』の異色性

 2012年公開『ドラえもん のび太ひみつ道具博物館』が異色なのは、先に述べた『大長編ドラえもん』のフォーマットにことごとく反しているからである。その相違点を3つにまとめると、

①冒険感が希薄で非日常性が薄いこと

②明確な悪人が存在しないこと

③(ゲストキャラクターとではなく)ドラえもんのび太間の友情が主軸であること

である。

 まず①冒険感が希薄で非日常性が薄いことであるが、本作の舞台はあらゆるひみつ道具が展示されている未来の博物館「ひみつ道具博物館」であり、のび太たちは基本的に博物館内でしか行動しない。活動範囲の狭さは『大長編ドラえもん』中最高である。また作中の展開も、舞台に沿ってひみつ道具を起点としたものがほとんどであり、通常の『大長編ドラえもん』における展開とは毛色が違う。普段であれば恐竜ハンターや地底人、異世界のロボットなど、「非日常的」な人物と環境が織りなす事件の中で物語は展開するが、本作『ひみつ道具博物館』では、通常の『ドラえもん』で馴染み深い「ひみつ道具」に主眼が置かれ、登場する人物の動機や環境が全てひみつ道具に関係・依存するものであり、非日常性が希薄になっている。

 ②明確な悪人が存在しないことについては、本作のドラえもん一行共通の敵に該当する人物は、ひみつ道具博物館の怪人・怪盗DXであるのだが、彼とドラえもん一行の対立の原因が「ドラえもんの鈴が盗まれたから」「ひみつ道具博物館の展示品を盗もうとしているから」であり、世界征服や密猟など、大それた野望を持っている訳ではないことがその印象を与えている。

 また、のび太たちが傷付けられる、あわよくば殺されてしまう、といったスリリングな展開も本作には存在しない。怪盗DXは怪盗らしく(?)自らの手を汚さないことにしているのか、ひみつ道具を用いて盗みの邪魔の排除はするものの、その行動は水鉄砲での足止めや照明での撹乱など、直接的な危害を与えるものではない。地球の全てを洗い流してリセットする「ノア計画」を企てた天上人や、ロボットの大群で街を焼き尽くした鉄人兵団などを相手取ってきた過去の『大長編ドラえもん』と比較すると見劣りするのは否めない。*3

 ③ドラえもんのび太間の友情が主軸であることについてだが、通常の『ドラえもん』では度々描かれてはいる。有名な最終回「さようなら、ドラえもん」や未来世界から帰ってきたドラえもんを迎える「帰ってきたドラえもん」、忙しいドラえもんのために敢えて一日だけは助けを呼ばないと決めたのび太の根性が光る「ドラえもんに休日を」など、どれも珠玉の名作揃いである。

 だが、通常の『大長編ドラえもん』ではゲストキャラクターが存在し、彼らとの友情を描くことが優先されるため、ドラえもんのび太間の友情が描かれることはまずない。過去の一部作品ではそれほど濃い交流の描かれていないキャラクターとも強引に友情を感じさせる描写がなされ、不自然さを感じさせるものもあるほどである*4

 本作では盗まれてしまったドラえもんの鈴を物語の発端、なおかつ全体のキーアイテムとして配置し、その鈴にまつわるドラえもんのび太の邂逅直後のエピソードを挿入することで、自然な感動を与えることに成功している。

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ひみつ道具博物館』は異端=駄作か?

 以上3つの観点から『ひみつ道具博物館』を見てみるとその特異性が浮き彫りになる。だが私が述べたいのはこの特異性が作品としての面白みを全く損なっていないこと、いやそれどころか増してさえいることである。

 まず、③での感動は通常のゲストキャラクターとの感動とは種類の異なる感動である。彼ら二人には、他のゲストキャラクターにはない時間の積み重ねがある。ある種外部依存的な蓄積ではあるが、それを承知している観客は、スクリーンに映し出されている物語と、普段テレビで見る二人の日常とを自然に重ねあわせる。だからこそ感動はより深いものとなる。

 それを可能にしているのが、①での舞台の矮小化である。敢えてゲストキャラクターを全面に押し出さず、作品の内宇宙的空間を舞台にすることで、通常の『ドラえもん』内の日常をより展開しやすいものにしているのである。②ものび太たち全員が危険に晒されるのではなく、ドラえもんだけが鈴を盗まれるというミニマルな危機を抱えることで、鈴にまつわるのび太とのエピソードが展開しやすくなっていると言える。

ひみつ道具博物館』は『大長編ドラえもん』の極北である

 このような特異性をもって、私はメインスタッフ・声優陣が一新された2006年以降の新体制『大長編ドラえもん』の総決算としてこの『ひみつ道具博物館』を位置付けている。

 そもそも私は大長編を3つの時期区分に分類している。

 まず、原作者である藤子・F・不二雄が存命で、映画脚本と漫画版『大長編ドラえもん』を手掛けていた第1作『のび太の恐竜』〜第18作『のび太のねじ巻き都市冒険記』を第1期とする。

 次に藤子Fが亡くなったものの、引き続き同様のスタッフ陣と藤子プロで続編を制作した第19作『のび太の南海大冒険』〜第25作『のび太のワンニャン時空伝』を第2期とする。

 最後に、メインスタッフ・声優陣が一新され、いわゆる「水田ドラ」体制で制作され、現在も続く第26作『のび太の恐竜2006』〜を第3期とする。今話題にしている『のび太のひみつ道具博物館』は第33作に相当するため、第3期の作品である。先の言葉を言い直すと、私は第3期『大長編ドラえもん』の総決算としてこの『ひみつ道具博物館』を位置付けているのである。何故か。それを今から述べよう。

 まず第3期の特徴として、リメイク作品の制作が挙げられる。『のび太の恐竜』から始まり、『魔界大冒険』、『宇宙開拓史』、『鉄人兵団』、『大魔境』、そして来年2016年公開予定の『日本誕生』など、第3期に制作される11作の内約半分の6作が過去のリメイク作品である。

 第2期から第3期への移行段階で、メインスタッフも声優もほぼ総とっかえが行われているのだから、第3期以降のアニメ『ドラえもん』とそれ以前の『ドラえもん』は別物であって良いはずである。つまり、この時点で第3期『大長編ドラえもん』は『ドラえもん』のキャラクター・設定だけを借りた一種の2次創作物であるはずなのである。

 この継続性は第1期から第2期への移り変わり、即ち原作者たる藤子Fの死によっても一度危ぶまれているが、「映画」というメディアの特質上、原作者一人の創作物ではあり得ない訳であり、そういった意味で完全な断絶はメインスタッフの継続によって免れていた。  だが、第3期では訳が違う。メインスタッフも変わり、声優陣も変わってしまえば、普通作品は同じ皮を被っただけの「ニセモノ」になってしまう。だからこそ、その継続性を取り繕うために、旧世代の取り込みを目論んだリメイクと完全オリジナル作品を交互に制作しているのであろう。

 この観点から、私は第3期『大長編ドラえもん』は藤子F存命時の第1期『大長編ドラえもん』の二次創作物的性格を色濃く持っていると考える。

 第3期ではセルフパロディやファンしか気付き得ない小ネタなどが度々盛り込まれているが、これも単純なファンサービスとしてではなく、二次創作的性格の証左であると考えることもできるだろう。ドラえもんが読んでいる本を見て、「あっ、ドラヤキ百科やん」と気付けるマニアが全国にどれだけいるのか。狭いコミュニティ内でしか通じ得ない言葉を使いたがるオタク的なクローズドな世界が透けて見える演出が第3期からは散見されるようになった。

 そして、この『ひみつ道具博物館』である。内宇宙的な舞台やストーリー全体もそうだが、背景にこれでもかと細かく描かれるマイナーなひみつ道具の数々は、明らかに「内向き」な視点を意識した演出であると言えよう。オープニングテーマの『ドラえもんのうた』前のプロローグで、最後にのび太が「ドラえも〜ん」と叫ぶ第1期からのお約束の意趣返しで、本作ではドラえもんが「のび太く〜ん」と叫んでさえいるのだから、本作は第3期の二次創作的性格の極北点と呼ぶべき作品であろう。

 以上が私の主張である。

 だが私は初めに述べたとおり、『ひみつ道具博物館』に『大長編ドラえもん』の新たな可能性を見た。今後同様の路線での作品を作ることができるのかは分からないけれども、ただよりよい作品を世に出し、末永く『ドラえもん』が続いてくれればそれで良いと思う。

 私にとって『ドラえもん』について語ることは実存について語ることに等しい。それだけに『ドラえもん』が無くなって、私が老人になった時語る言葉を失ってしまうのが怖いのだ。こんな人間は少ないだろうけれども、私一人ではないはずだ。今後も『ドラえもん』が、そして藤子・F・不二雄が読みつがれていくことを私は切に望む。  

*1:藤子不二雄自選集4 ドラえもん ナンセンスの世界2』

*2:『フィルムコミック のび太と夢幻三剣士下巻』

*3:これは藤子Fの戦争体験に起因するものであっただろう。鉄人兵団のラスト、「即席落とし穴」で身を隠しながら鉄人兵団の到来を待つシーンは特に戦場的だ

*4:これは新体制になってから顕著に見られる。『人魚大海戦』などもそうだし、全体的に「泣き」についての過剰な演出が目立ち強引さが目につくのは確かである。