自作解題をすることについて

自作解題をやろうと思う。

というのも、今回書いたもの(中年終末野球 - 鯨のはんげき)は自分なりに満足いった部分もあれば経緯上不満足なものにならざるを得なかった箇所もあり、両者が共存していて、結局何をしたかったのか、誰にも伝わったいなかった気がしたからである。

もっとも、創作なんてそもそもが一発ネタ・出オチのつもりで始めたことだし、自分一人でやってりゃ誰にも文句も付けようがない究極的に自己満足な行為にすることもできる行いなのだが、年末だし総決算ということで何か書いてもいいだろうという気にもなった。

そもそも自作解題というのは一般に品のない行いだとされているが、結構人の書いたものを読むのは好きだったりする。見えたものと裏側の構造との答え合わせが、隙間を感じて何かを得た気になることがある種の快感に導いてくれたりもする。

 

✳︎

 

そもそももっと長いものになるはずだった。あまりにも短い。読んだら分かるがセリフばっかりだ。下スッカスカやで。

というのも、今回出来上がった代物は、本来想定していたプロットの骨子だけを取り出し、感情の掘り下げを最低限にして、雰囲気だけで何かを言った気になったことにした、誤魔化しの化物みたいなものになっているからだ。

では、なぜプロットそのままで書かなかったのか。

実際に書いていたのだが、途中で鬱になって日常生活に支障をきたし始めたのでストップを掛けたというのが答えで、あまりにも辛くなってやめた。私小説に非リアリズムを持ち込んでみる、という当初の企みの意味からして、自らの中にあるテーマを消化し、一応の結論を提示する必要があったのだが、それが非常に困難を極めた。無理だ。

一貫して自分の中にあるものを書いてきた。分解して再構成することもあったが、大抵は直球勝負を仕掛けた。三人称にすることで「自分のことではない」エクスキューズを掛けながらも、自分の身を削って書くことしか書き方を知らない。その書き方については疑問があり、今年の春に書いたものではそこから離れた書き方を模索して、同時にどこまで枚数を膨らませることができるのか挑戦した……けれども、どうにも嘘くさい。人間の底を割れていない。書きたいものではあったが、本当に書きたいものではなかった。

やはり直球を極めるべきだと決意して臨んだこの大一番、結論から言えば敗北だ。大敗北。もっと人生に真剣に向き合う必要があると思った。

 

ただまあ、テーマとして「家族」「無意味な儀式と化した社会儀礼」を書くこと、そのメタファーとして「無限に続く試合」を使うこと、この2点をクリアすることは出来るだろうと思って、書いた原稿を全部捨てた後も悶々と考えていた。

するとある時、全く違った形で書く方法を思い付いた。正に天から降ってきたように思えた。

その時、僕の頭にはコマが見えた。漫画のコマだ。当時僕は黒田硫黄にどハマりしており、講義中もずっと『茄子』や『大日本天狗党絵詞』を読み耽っていた。

すると黒田硫黄のあの筆のタッチで描かれたコマが、ネームが、セリフが、頭にありありと浮かんできたのだ。僕は慌てて、消えないうちにセリフだけをノートに書き写した。

だから今回の話は全てセリフが先にあった。セリフの間の地の文を埋めていく形で書いた。

意外と上手くいった。

黒田硫黄の良さというのはその軽みと洒脱さで、登場人物一人一人の内面が確固として存在しているように思えて、なおかつ作者のエゴを全く感じさせない、脱臭された距離感がその魅力だと思っている。僕は黒田硫黄の力を借りて、私小説的な作者のエゴから登場人物を解放させることができた。

だがその分、感情を掘り下げることはままならなかった。「人間の底を割る」こればかりここ数ヶ月一人で呟いているのだが、そもそも底になど到底到達し得ていない。

本当は小林恭二的な、もっと言えば「ゼロ年代の臨界点」や『ゼウスガーデン衰亡史』的な架空歴史を盛り込むはずだった。天皇制も絡めるはずだった。エンタメの常道としてタイムリミットを設けてそれまでに一悶着起こさせるはずだった。

でもできなかった、今の僕には家族の問題というのは到底一人きりで今すぐに結論を出せる話ではない。今なお目を背けて生きている。

時間が解決することだけを祈ってただ僕は日々を素通りさせている。父がいなくなったら部屋は僕が接収して今はホームシアター代わりにしつらえた。これからどうなるのか、誰にも分からないし本当は関わりたくもないのだが、依然現実の問題として押し寄せその圧力をこれを書く今ですら感じないではいられない。

 

さあどうする、織部やすな

 

ふざけている場合ではない。でも助けてほしい。これを書くことで何らかの岩盤が崩されてくれることを祈る気持ちがないと言えば嘘になる。嘘はつかない。昨日読んだ藤枝静男の「空気頭」にも、露悪的に虚の自分の振る舞いを記述することで私小説の枠を打ち破ろうとする試みがあった。これが何の足しになるのか、恐らく何にもならない、けれど書かずにはいられない気がした。

2018年は気持ちを素通りさせることなく、真剣に向き合う覚悟で生きようと思う……が、高校生の時にそれで大クラッシュを起こした身としては足がすくんで仕方がない。なあなあで生きる道を選ぶべきではないのだろうか。答えは未だ出ない。出たら書く。

 

中年終末野球

 十六歳の頃、私はあの球場へ行ったことがある。
 どこに根を張っているのか、外壁に生い茂り壁の色をほとんど消してしまっている蔦。アスファルトに入った亀裂を踏み越えながら、私は入場門をくぐり抜けグラウンドを一望した。

 何の表示も浮かべないスコアボードや根元から折れた巨大なナイター用照明、錆びて朽ち果てたオンボロフェンスは、この球場が既に廃墟であることを何一つ言葉を使うことなく雄弁に物語っていた。
 私は内野席の一番打席に近いところ、いわゆるバックネット裏に一人の男が座るのを見かけた。
「何してるの」
「スコアブック付けてるの、見りゃ分かるだろ」
 男は透明のボールペンと黒表紙の帳面を持っていた。口元の髭は珍しくも几帳面に整えられていた。
 廃墟に見えた球場だったが、グラウンドをもう一度よく見ると、確かにユニフォーム姿の選手たちが内外野に散ってめいめいが捕球体制を取っていた。
 そして打席にはヘルメットを被った打者やプロテクターを付けた捕手の姿があった。確かに野球だ。
「いつもいるの」
「まあな」
「家ここ?」
「まさか」
「暇なの?」
「そっちこそ」
 男が銀縁の眼鏡越しに私の方を見ていた。
 促されるように私は男の隣の座席に座った。

「いつから付けてるの」
「そうだなあ、趣味だからなあ」
「覚えてない?」
「気が付いたらここにいた」
「普段は何してるの」
「畑仕事」
「食べてけてるの」
「心配されずに済む程度にはな……おい、さっきの打球どこに飛んだのか分かんなくなっちまったじゃねえか」
 コキンと小気味良い音が響き、男の頭越しに一塁ベース上へと走る選手の姿が見え、咄嗟に出鱈目が口をついて出た。
「なんか右のほう?」
「ライトか? セカンドか?」
「ここから遠いほう」
「ライトだな」
 男はボールペンをクリックして、何らかの記号を帳面の上に記した。
 私にはその所作がひどく退屈なものに見えた。
「付けてて楽しい?」
「まあな」
 男は再び帳面に向かいページを繰った。
 記入が繰り返される間、私は黙って男の手元を見ていた。男は何も言わなかった。

 しばらくすると、散っていた選手たちがぞろぞろと集まり、皆一様に帽子を脱いだ。彼らは無人の外野席を一瞥してひとしきり手を振ると、グラウンドからベンチへと戻った。最後の一人がベンチ裏へと下がると、グラウンドには薄闇と茶色の土しか残らない。
 男は席を立った。
「もういいの」
「いいのさ」そういって男は一つ伸びをした。「いつでもやってるから」
「わたしお腹空いた」
「うち来るか、何か作ってやるよ」
「やった」
 男は口角を微かに上げながらフライパンを上下に振る真似をしてみせ、その仕草は不思議と素直に受け容れられた。
 
 男の家は球場を出てすぐのところにあった。
 家のそばにはこじんまりとした畑が広がっていて、緑色の葉が土から顔を覗かせる。
「食ったら帰れよ」
 帳面とボールペンを食卓に置いて、男は台所へ向かう。部屋の端には紐でくくられた黒表紙の帳面が山になって置かれていた。
「いやって言ったら怒る?」
「まあな」
 私は食卓の椅子に座り、料理をする男の背を眺めていた。

 男が鍋を振ると、食卓の匂いがした。
「お父さんがいなくなったの、急に」
「うん」
 運ばれてきた野菜炒めを向かい合わせに食べながら、男は相槌を打つ。
「私のお父さんになってくれない」
 男は皿から目を離さなかった。
「バカ言え」
「バカじゃないよ」
「永遠に続くものなんてないだろ、たとえ家族でも」
「野球も?」
「あれは別」
 食べ終えた皿を男の分も洗って私は家に帰った。
 父はいなかった。 
 

 次の日、私はまた球場を訪れた。男も相変わらずバックネット裏に陣取ってスコアブックを付けていた。
 しばらくはまた男の手を見ていた。私の華奢な手ではない男の手だった。
 こうした日々を何日も繰り返した。私には球場以外の居場所はなかったから。

 ある日、男が立ち上がった。
「野球してみるか」
「いいの」
「いいよ」立ち上がった男はグラウンドに声を掛けた。「おい代わってくれ」
「あいよ先生」
 グラウンドにいた選手が手を振って応えた。
「先生って呼ばれてるんだ」
「まあな」
「何で?」
「勝手に呼んでるだけだ」
「嘘」
 ベンチに置いてあったユニフォームに着替えて、私と男はグラウンドへ向かった。
 グラウンドへ降りてみると、荒れ果てた土の様子にここが廃墟であることを再認識させられた。名も知らぬ雑草が三塁ベース付近に繁茂しているのがネクストバッターズサークルの近くからよく見えた。
 しばらくの間、試合を観察して気付いたことがあった。
「みんなわざと点を取らないようにしてるのね」
「儀式だからね」
 私は男のスコアブックに得点が記入されたところを一度も見たことがなかった。得点圏にランナーが進んだと見えたら毎回空振りの三振。決して柵越えのホームランなどあり得ない。ずっと0。何があっても0。そして休みなく試合は続く。
 男の帳面の左上には現在が何回のイニングなのか記入する欄があった。いつ見ても空欄は大幅に超過され、記される数字は十桁を超えていた。
 回数を重ねるごとに擦り切れる意味は無意味な殻しか残さない。儀式だった。
「私がホームラン打ったらみんな怒る?」
「どうだろうな」男はバットのグリップを握りながら言う。「案外せいせいするかもしれない」
「茶番なのね」
「そう悪く言うなよ、役に立つ茶番もある」
「家族とか?」
「そう」
 私は男からヘルメットとバットを受け取り、打席へと向かった。
 
 マウンドにはグローブを付けた男がいた。黒帳面とボールペンがズボンのポケットに突っ込まれ、はみ出しているのが見えた。
 投球練習をしながら男は話し続ける。
「兄弟は?」
「弟が二人」
 男の投げた球がキャッチャーのミットに収まる。
「お母さんを大事にしろよ」
「儀式だから?」
 キャッチャーの返球を男が受ける。
「それで納得するならな」
「明日もここ来ていい?」
 規定の球数を投げ終え、審判のプレイの声が掛かる。男が振りかぶり、私はバットを今一度強く握り直す。
「やめとけ」
「そう」
 私は思いっきりバットを振った。
 バットは私の手をすり抜けて男の頭をめがけて真一文字に飛び、茶色の土の上に赤い鮮血が点々と散った。
 男の投じた球がキャッチャーミットに収まり、審判は右手を高々と上げた。代わりのリリーフ投手がほどなくマウンドへやってきて、男の死体はベンチ裏へと下げられていった。
 試合は続き、私は空振り三振をして打席を後にした。

 その後しばらくして、路地の屋台にハードカバーに製本されたスコアブックが陳列されているのを見かけた。英字の題名が記された雑誌類と並んで置かれていた。折り返しの著者近影には、球場にいたあの男が描かれていた。
 男は例の儀式を記録する仕事が本業だったのかもしれないと私は思った。
 だが私には、私の茶番を記録することはついぞできなかった。

中年終末野球 完

最近読んだ漫画の話

最近何だかヒマになったので、昔から読みたかった漫画を読むことにしている。

ドカベン→よかった。山田記憶喪失回とか。殿馬ハイジャック回とか。

茄子→全部神。セクシーボイスアンドロボまでの黒田硫黄は全部神。

ヒストリエ→めっちゃ面白い。

ランド→引きがすげえ。

童夢→絵が上手え。

少女終末旅行→4巻でなんか叫んだ。

宝石の国→アニメのネタバレになるので途中までしか読んでない。けだる気なかわいい女の子(?)好き。

レイリ→去年『真田丸』見てたから時代背景も何となく馴染みがあって面白い。

デビルマン→まあお勉強ですなこれは。

妖怪ハンター→小学校の図書室に置いててくれたらよかったのに。

エイリアン9エヴァ旧劇のノリでロリコン趣味を爆発させた上にハードSF風味を効かせたキワモノ。今後もウォッチ対象の作者。

 

無意味によかったコマを貼るf:id:ginjari:20171119005847p:image

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甲子園球場へ向かう時にお使い下さい

藤野可織『おはなしして子ちゃん』

おはなしして子ちゃん (講談社文庫)

おはなしして子ちゃん (講談社文庫)

文庫落ちしたのを書店で見かけたので購入。藤野可織作品は一昨年の「パトロネ」読書会以来。

おはなしして子ちゃん

理科準備室のホルマリン漬けにされた猿が、喋るどころか話をせがんで吸収しては復活して人を襲う。一見無駄に見える(授業で使わないし)ホルマリン漬けの標本も、話す機会が奪われた女の子にとっては意味のあるものになり得たのだというお話。

ピエタとトランジ

行く先々で事件を誘発する異能力の持ち主である女の子(黒髪真面目)と、JK好きな年上社会人に騙されてた頭の弱めな女の子(ギャル風)のキャラ文芸風百合推理もの。藤野可織ってこんなものも書くのかと少しびっくりした。

アイデンティティ

猿と鮭を強引に縫い合わせて人魚にして輸出する職人たち。失敗作の主人公(人魚)のアイデンティティをめぐる葛藤が主題なんだけど、円城塔を連想させるユーモアが全編に溢れていて面白い。みんなが「人魚です」と言えるのに、ひとりだけどうしても「鮭です」「猿です」と言ってしまうところとか。

今日の心霊

撮る写真が全て心霊写真になってしまう女性。いけしゃあしゃあとホラを吹き続ける語り口が好き。プリクラはセーフ(機械がシャッターを切るから)とか、「彼女が撮影したネガは最後」で「ん?」と思わせておいてからデジカメ全盛期の到来とか。

美人は気合い

宇宙船の一人称なのでSF!!

エイプリルフール

毎日一度だけ嘘を付かないと死ぬ女の子の話。
一度だけというのがポイントで、周りも女の子を殺したくないから気を遣ってしまう。つまり、誤解から生まれた発言を事実を修正して嘘でなくしてしまうことになり、次第に女の子は何一つものを言わなくなってしまう……ママから言われた「私は蝶を食べるのが嫌いです」という明白な嘘以外は。「アイデンティティ」に引き続きアイデンティティとか自己承認の話か。

逃げろ!

強迫観念に襲われる男の話。

ホームパーティーはこれから

新婚の妻が、夫の会社の同僚たちを招いてホームパーティーを主催することに。
かつて輝いていた昔の自分、今でもSNSで承認され続けている自分(あたし)と今の自分(私)を摺り合わせようともがくも、ホームパーティーは始まってしまい、気が付けば異常な数の人が……、というエスカレーション式のホラー。またアイデンティティの話か。

ハイパーリアリズム点描画家の挑戦

人生をかけて超精密な絵を点描で描いた芸術家たちの展覧会。展覧会での場所取り争いが暴力的であるある。

ある遅読症患者の手記

本が有機物で、透明なパックを開けると生長をはじめるような世界で、読むのが遅くて毎回本を殺してしまう主人公。読書の時の強迫観念(早く読まなきゃ、とか細かいところが気になって先に進めない、とか)がホラーの形でよく出ているなあ。
本絡みの奇想で、スラデックの「教育用書籍の渡りに関する報告書」を思い出した。

全て並々ならない奇想に溢れている。
というか、「おはなしして子ちゃん」「美人は気合い」以外の8作は群像2013年8月号に一挙掲載、ってどういうことなんや。えげついなあ。
おすすめ。

筒井康隆『パプリカ』について

書いていたら所定の文字数よりもかなり長くなったので。どうしようか。結局昔の思い出話を枕に使うつもりが、思いのほか長くなっただけの話なので、全部削ればいいんだとは思うけど。

 

***

パプリカ (新潮文庫)

パプリカ (新潮文庫)

 

 

 個人的な話で恐縮だが、ぼくが映画『パプリカ』を観たのは高校二年生の時、修学旅行でシンガポールへと向かう機内でだった。
 その時、ぼくは筒井康隆こそほぼ全作読んでいたけれど(プロフィールに書くようないわゆる「好きな作家」だったから)、アニメーション監督としての今敏の名も、ミュージシャンとしての平沢進の名も知らなかった。
 帰国後、ぼくたちは旅行の感想文を書かされた。それは一冊の黄色い表紙の本として綴じられた後に修学旅行文集として配られ、今も家に残っている。
 マーライオンについて、猥雑なチャイナタウンについて、あるいは厳しく照りつける熱帯の陽射しについて書かれた文章が並ぶ中、ぼくの感想文は全編、映画『パプリカ』がいかに素晴らしいか、という内容で占められていた。
 もちろん、皆と同じことは書くまいという青臭い自意識、あるいは、ぼくも関西人だから、友達からの”ウケ”を狙うための冗談が動機の半分だっただろう。だが、もう半分は紛れもなく『パプリカ』に対する感動がなしたもので、それから数年が経ち当時の自分を少しは客観視できるようになった今でも、『パプリカ』に対する評価は変わらない。ぼくにとっては、風光明媚な観光名所やエキゾチックな雰囲気と、『パプリカ』の素晴らしさは、どちらも同じ程度には人に伝えたくなるものだったのだ。
『パプリカ』は、筒井康隆の十八番であるところの精神分析や夢をメイン・テーマとして打ち出した作品だ。他人の夢を映像化してモニタリングし、介入することで精神疾患を治療するPT技術が発展した近未来。精神医学研究所に勤める千葉敦子は、同僚の時田浩作とともにノーベル生理学賞の有力候補とされている優秀な研究者だが、彼女には「夢探偵・パプリカ」としてのもうひとつの顔があった。すなわち、公に治療を受けられない有力者からの依頼を受け、彼らの夢へと侵入することで無意識下の抑圧を探し出し神経症を治癒へと導くのだ。
 新潮文庫版の解説で斎藤美奈子が指摘している通り、『パプリカ』は物語全体が夢を模した構造になっている。「今の時間(引用者注・深夜二時頃)に見る夢はだいたい短いんだけど、情報が凝縮されてるわ。芸術的短篇映画ってところかな。朝がた見るのは一時間ほどもある娯楽的な長篇特作映画」という千葉敦子=パプリカの言葉通り、第一部では社内政治に巻き込まれる能勢や、警視監にまで出世しながらも家庭内の不和に悩む粉川、あるいは精神医学研究所内での研究者同士のいがみ合いなどがSF的な奇想抜きで展開されるのに対し、第二部では最新のPT機器・DCミニを巡り、人の夢から夢への往来、あるいは夢から現実への干渉といった超現実的な事件が多発する。また、一度の睡眠で起こるレム睡眠は通常四、五回とされているが、物語内部で起こる夢も五回とそれに対応しているのも傍証となるだろう。
 印象的なのは、最後の場面での能勢の台詞だ。ジーン・ウルフの名作「デス博士の島その他の物語」の結末部、「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも獣人も」を思い起こさせるような、本あるいはフィクションというものへの言及。読者へ、読書という夢から醒めるよう静かに誘導するかのようなその後のエピローグも含め、『パプリカ』全体が夢のメタファーであることは間違いない。こうなると、いささか男性に対して都合の良すぎるパプリカのキャラクター性、女性性も「夢だから」という逃げを打てることを見越して意図されたものなのだろうと、悔しいが結論付けなければならないだろう(当時の連載誌が女性誌であることにも注目せねばなるまい)。
 だが、『パプリカ』を読むこと自体が夢を見ることのメタファーだとすれば、我々はどうすればよいのだろう。
 ウルフが「デス博士〜」で描いたのは、フィクションによる現実逃避の肯定だ。辛い現実を生き抜く少年に対して与えられるフィクションの癒しの作用をウルフは描いた。
『パプリカ』も同じだ。能勢が夢でのパプリカのとの再会を確信するように、我々も本書を開けばまたパプリカに再会できる。それがこの物語の良さでもあり、同時に限界でもある。山形浩生は「デス博士〜」を評してそれ自体として閉じた静物画的な世界と言ったけれど、この言葉はこの物語に対しても当てはまってしまう言葉だろう。
 ぼくは修学旅行文集を数年ぶりに開くことで、昔のぼくと再会した。『パプリカ』にしても修学旅行の文集にしても、本自体、そこに書かれてある文章は変わらない。
 けれど、読み手であるこのぼくは少なくとも変わり続けているはずだ(現に、当時の青臭さは今だとちょっと厳しい)。そんな中で、かつての自分を否定することなく、昔のぼくも今のぼくも両方が素晴らしいと思える作品に出会えたこと、それ自体は大変喜ばしい、めったにないことなんじゃないか? それこそ、物語が物語として真に優れている証拠だと言えるかもしれない。
 夢と現実の重なり合う悪夢的な世界、ディック感覚(便利な言葉だ!)が本書の魅力なのかもしれない(同時に、それらを卓越した映像美で表現した今敏の映画版の魅力も)。だが、物語をなぜわれわれは求めるのか、というテーマをも考えさせられるあのラストの余韻こそが、最大の魅力なのではないだろうか。

 結局バイトは見つかった。いずれ報告できることになるだろう(と思うのだけど、初っ端から少しつまずき気味なのが気になる)。

 パロディ・オマージュ元を見つけることを無常の喜びと捉える人々も数多く、僕なんかもその一人ではあるのだけど、自分が作り手に回った時、無意識の内に別の作品の影響をもろに出してしまっていた場合の気恥ずかしさというのはちょっと異常だ。

 例えば、久米田康治が『さよなら絶望先生』でドラえもんのある話のオチを無意識的になぞってしまっていた、ということが昔あった。当時、僕を含めたファンは、久米田先生が藤子ファンでドラえもんパロを過去にもやってきたことを知っていたから、今回もその一つなんだろうなあ、と感じていたはずだ。でも実際は、無意識にパクってしまっていたということで、本人は弁明していた(結局小学館側も別に気にしない、と返事をしたそうだけど、本人は随分傷ついていたようだ)。

 この場合恐ろしいのは、自分の制御下に置けない自分というものが、作品と言う形をとって目の前に現れてくることだろう。

 ことばそのものが自分オリジナルのものであることはなくみな借り物だということは前提としても、借り方に偏りが無意識に生じてしまっていることはまた別問題だ。

 

 という訳で、ひとり傷付いていた。

 傷付きながらも次に活かそうと思い、現実逃避に競作用の原稿に手を付け始めるなど。そんな土曜日。

 

 

2016年度読んだ本ベスト5

 少しでも役に立つような(役に立ててくれる人がいそうな)ベスト記事を書いてみる。

第1位 ジョン・スラデック『ロデリック』
第2位 ハーラン・エリスン『死の鳥』
第3位 J・G・バラード『クラッシュ』
第4位 ジーン・ウルフケルベロス第五の首』
第5位 小林恭二『ゼウスガーデン衰亡史』

以下解説。
 スラデック奇想コレクションの短編集があんまり合わなかったので不安だったが、古本屋で拾った『遊星よりの昆虫軍X』でドハマりして、たまらず『ロデリック』も読んだ。
 ロボットのロデリックくんのビルディングスロマンというのが骨子なんだけど、周りの人たちはみなロデリックのことを人間だと思って扱うし、でもロデリック自身は自分がロボットだということを知ってる。その矛盾がドタバタを引き起こして果ては人とロボットの違いというロボットSFには避けて通れないところに問いを投げかけていたりする。訳の分からなさ(例えば虚航船団の第1章とか、とにかく何かが起こってるんだけど全部は分からなくて、でも面白いというアレ)が面白い一冊。
 エリスンは収録作全てが傑作という訳のわからない代物。
 クラッシュは……イカれ切ってて、でも格好いい。
 ウルフは読書会もした(「アメリカの七夜」)しね。この読書会の下調べで久し振りに英文読んだなあ。向こうにはWolfewiki(http://www.wolfewiki.com/pmwiki/pmwiki.php?n=WolfeWiki.Contents)なんてものがあるんですよ。

 小林恭二はS先輩におすすめされて読んだのだけど、この間冬コミで某先輩とこの話になった時、S先輩におすすめしたのはその先輩だったということが分かったりもした。伴名練「ゼロ年代の臨界点」みたいな話。

 漫画だと、つばな『第七女子会彷徨』完結がめでたい。ばりばりのハードSFは敬遠しがちで、日常のなかに潜むセンス・オブ・ワンダーとかが好みな人には読んで欲しい。

 来年はどうなるんだろう。大体自分の好みが分かってきたような、そうでないような。とりあえずバイト探したいなあ。

 

 

 

クラッシュ (創元SF文庫)

クラッシュ (創元SF文庫)

 

 

ケルベロス第五の首 (未来の文学)

ケルベロス第五の首 (未来の文学)

 

 

ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)

ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)