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 結局バイトは見つかった。いずれ報告できることになるだろう(と思うのだけど、初っ端から少しつまずき気味なのが気になる)。

 パロディ・オマージュ元を見つけることを無常の喜びと捉える人々も数多く、僕なんかもその一人ではあるのだけど、自分が作り手に回った時、無意識の内に別の作品の影響をもろに出してしまっていた場合の気恥ずかしさというのはちょっと異常だ。

 例えば、久米田康治が『さよなら絶望先生』でドラえもんのある話のオチを無意識的になぞってしまっていた、ということが昔あった。当時、僕を含めたファンは、久米田先生が藤子ファンでドラえもんパロを過去にもやってきたことを知っていたから、今回もその一つなんだろうなあ、と感じていたはずだ。でも実際は、無意識にパクってしまっていたということで、本人は弁明していた(結局小学館側も別に気にしない、と返事をしたそうだけど、本人は随分傷ついていたようだ)。

 この場合恐ろしいのは、自分の制御下に置けない自分というものが、作品と言う形をとって目の前に現れてくることだろう。

 ことばそのものが自分オリジナルのものであることはなくみな借り物だということは前提としても、借り方に偏りが無意識に生じてしまっていることはまた別問題だ。

 

 という訳で、ひとり傷付いていた。

 傷付きながらも次に活かそうと思い、現実逃避に競作用の原稿に手を付け始めるなど。そんな土曜日。

 

 

2016年度読んだ本ベスト5

 少しでも役に立つような(役に立ててくれる人がいそうな)ベスト記事を書いてみる。

第1位 ジョン・スラデック『ロデリック』
第2位 ハーラン・エリスン『死の鳥』
第3位 J・G・バラード『クラッシュ』
第4位 ジーン・ウルフケルベロス第五の首』
第5位 小林恭二『ゼウスガーデン衰亡史』

以下解説。
 スラデック奇想コレクションの短編集があんまり合わなかったので不安だったが、古本屋で拾った『遊星よりの昆虫軍X』でドハマりして、たまらず『ロデリック』も読んだ。
 ロボットのロデリックくんのビルディングスロマンというのが骨子なんだけど、周りの人たちはみなロデリックのことを人間だと思って扱うし、でもロデリック自身は自分がロボットだということを知ってる。その矛盾がドタバタを引き起こして果ては人とロボットの違いというロボットSFには避けて通れないところに問いを投げかけていたりする。訳の分からなさ(例えば虚航船団の第1章とか、とにかく何かが起こってるんだけど全部は分からなくて、でも面白いというアレ)が面白い一冊。
 エリスンは収録作全てが傑作という訳のわからない代物。
 クラッシュは……イカれ切ってて、でも格好いい。
 ウルフは読書会もした(「アメリカの七夜」)しね。この読書会の下調べで久し振りに英文読んだなあ。向こうにはWolfewiki(http://www.wolfewiki.com/pmwiki/pmwiki.php?n=WolfeWiki.Contents)なんてものがあるんですよ。

 小林恭二はS先輩におすすめされて読んだのだけど、この間冬コミで某先輩とこの話になった時、S先輩におすすめしたのはその先輩だったということが分かったりもした。伴名練「ゼロ年代の臨界点」みたいな話。

 漫画だと、つばな『第七女子会彷徨』完結がめでたい。ばりばりのハードSFは敬遠しがちで、日常のなかに潜むセンス・オブ・ワンダーとかが好みな人には読んで欲しい。

 来年はどうなるんだろう。大体自分の好みが分かってきたような、そうでないような。とりあえずバイト探したいなあ。

 

 

 

クラッシュ (創元SF文庫)

クラッシュ (創元SF文庫)

 

 

ケルベロス第五の首 (未来の文学)

ケルベロス第五の首 (未来の文学)

 

 

ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)

ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)

 

 

6月の読書

諸事情あってバラード(及びその周辺のニューウェーブSF)を読みまくらないといけない状況にあるので、来月からしばらくはそんな本ばかりが並ぶでしょう。と言ってる端から『野﨑まど劇場』を読んでげらげら笑ってたわけですが。奇想マガジンに感謝。

 

 

2016年6月の読書メーター
読んだ本の数:21冊
読んだページ数:4811ページ
ナイス数:12ナイス

J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイドJ・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド感想
スターウォーズを貶しまくり、ダリを崇め、バロウズを賞賛するバラード。書評もバラードの鋭さが垣間見えて面白いが、やっぱり上海時代の自伝的内容がバラードのルーツという点でいちばん興味深い。あと、「『グレイ解剖学』が20世紀最大の小説である」には笑った。
読了日:6月29日 著者:J.G.バラード
乱視読者のSF講義乱視読者のSF講義感想
ディッシュとかジーンウルフとか。
読了日:6月28日 著者:若島正
文学賞メッタ斬り! ファイナル文学賞メッタ斬り! ファイナル
読了日:6月28日 著者:大森望,豊崎由美
ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)
読了日:6月22日 著者:サミュエルベケット
かくしごと(1) (KCデラックス 月刊少年マガジン)かくしごと(1) (KCデラックス 月刊少年マガジン)
読了日:6月21日 著者:久米田康治
第七女子会彷徨 9 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 9 (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 8 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 8 (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 (6) (リュウコミックス)第七女子会彷徨 (6) (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 (5) リュウコミックス第七女子会彷徨 (5) リュウコミックス
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 4(リュウコミックス)第七女子会彷徨 4(リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 3 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 3 (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 2 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 2 (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 1 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 1 (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
アジアの岸辺 (未来の文学)アジアの岸辺 (未来の文学)感想
どれも面白い短編集だが、「本を読んだ男」「話にならない男」なんかはひときわよい。「降りる」もホラーで救いのない感じがいい。オチはないが。「リスの檻」はディッシュの代表作だが、流石にテーマ・手法的に古びているんじゃなかろうか。
読了日:6月16日 著者:トマス・M.ディッシュ,若島正
マンガ・エロティクス・エフ vol.74マンガ・エロティクス・エフ vol.74感想
つばな特集。
読了日:6月12日 著者:山本直樹,つばな,御徒町鳩,ancou,松本藍,吉富昭仁,シモダアサミ,ソラノハル太,石黒正数,ツナミノユウ,中村明日美子,志村貴子,河内遙,浅野いにお,鬼頭莫宏,おがきちか
結晶世界 (創元SF文庫)結晶世界 (創元SF文庫)感想
ギアがかかる前のドストエフスキーっぽい読みにくさ。
読了日:6月9日 著者:J・G・バラード
後宮楽園球場 ハレムリーグ・ベースボール2 (ダッシュエックス文庫)後宮楽園球場 ハレムリーグ・ベースボール2 (ダッシュエックス文庫)感想
野球要素しかありません。挿絵で王さんの本塁打記録の時のハリー(めっちゃ高く跳んでるやつ)のパロディやってるのが一番受けた。あとメンチコピペ。
読了日:6月3日 著者:石川博品
ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)感想
『虚航船団』第二部を思い出さざるをえない。
読了日:6月3日 著者:小林恭二
スペシャル 1 (torchi comics)スペシャル 1 (torchi comics)
読了日:6月2日 著者:平方イコルスン
決してマネしないでください。(1) (モーニング KC)決してマネしないでください。(1) (モーニング KC)感想
円城塔推し漫画。理系ネタ。
読了日:6月1日 著者:蛇蔵
かぐや様は告らせたい 1 ~天才たちの恋愛頭脳戦~ (ヤングジャンプコミックス)かぐや様は告らせたい 1 ~天才たちの恋愛頭脳戦~ (ヤングジャンプコミックス)
読了日:6月1日 著者:赤坂アカ

読書メーター

『STAND BY ME ドラえもん』は「感動装置」か?

iseyan93.hatenablog.com

 いせやん氏(id:Iseyan93)の『STAND BY ME ドラえもん』エンディングについての考察が、やっぱり自分の中では腑に落ちなかったので、自分なりの感想及び解釈を書いておくことにする。
 そもそもの問題は映画の最後、スタッフロールと共に流れるエンディングの演出についてだ。
 このエンディング、先日のテレビ放送版ではばっさりとカットされてしまっていたのだが、実はとんでもないどんでん返しが仕掛けられていた。

メタフィクショナルなエンディング

 それは「今までの本編は全てドラえもんたちの撮影した劇中劇だった」という仕掛けである。具体的には本編シーンのNG集、昔のジャッキー・チェン映画や最近のピクサー映画に見られるようなものがスタッフロールと共に流れる演出であった。
 最後の最後に唐突に挿入されたこのメタフィクショナルな演出を巡っては賛否両論、どちらかと言えば「否」が多いようだが、一般的な「否」の反応としては、

「単なるピクサーの真似」

「最後の最後で今までの感動がぶち壊しにされた」

という2つが、ざっとネットを漁ってみて見つかる。
 しかし、いせやん氏はこれを「5人の物語」として成立させるための仕掛けだとし、このエンディングが始まってホッとした、と言う。
 だが、やはり納得出来ない。
 「5人の物語」と言うが、わざわざ映画で追加された「成し遂げプログラム」の存在や、ストーリーのプロットを考えると、ぼくにはこの映画は「のび太ドラえもんの物語」、あるいは「のび太の物語」として作られているように感じる。
 「成し遂げプログラム」については、ストーリーを円滑に進めるための小道具かつ原作や98年版の映画では明らかにされていなかった「ドラえもんが帰らなければならない理由」の具体化という一面もあっただろうが、のび太の世話を義務的なものから自発的なものへと変化させる友情の形成過程を尺の中で効率よく描くための手段だったとも思う。

 ストーリーも、採用されている短編はいずれも「のび太の成長」を描くものだ。

 だから、この映画は「のび太の物語」なんだと思う。普段の大長編は「5人の物語」かもしれないが、本作はまた異なる軸を持っている。

 さて、少し話が逸れたが、エンディングについて。
 実際、僕も昨年劇場で鑑賞し、このエンディングが流れた時には」
「最後の最後で今までの感動がぶち壊しにされた」
と思った。
 なぜ今になって、「感動の物語」だった映画を「偽物」にしてしまうのか?
 これはスクリーン上に展開された物語に本気で、マジで感動していた観客への裏切りではないのか?
 なぜ、昔の思い出の楽しさの中にずっと浸らせてくれないのか?
 なぜ、「夢」を終わらせ、「現実」へ帰らなければならないのか――

 ここまで考えたところで、ふと既視感を覚えた。同じように、「現実へ帰れ」という強烈なメッセージを投げかけられた映画のことを思い出したのだった。

 

エヴァ旧劇を思い出した

 ぼくが思い出したのは、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」の終盤、観客席に座ったオタクをスクリーン側から写した有名なシーン。

 このシーンは監督・庵野秀明からの強烈なメッセージだった。

 テレビ放送版で伏線や謎をほとんど丸投げして終わってしまった(これが意図的なものだったかどうかは微妙なところだ。今で言う「炎上商法」を狙ったフシもあったのだろう)エヴァだったが、オタクたちは考察をやめず、結局公的抑圧に負け、庵野秀明は丸投げしたTV版の最後2話を改めて作り直すことになる。

 シンジの「ねえ、夢って何かな?」の問いをきっかけにして、対話のかたちで「夢」と「幸せ」と「現実」が語られる。「都合のいい造り事で現実の復讐をしていたのね」「虚構に逃げて真実を誤魔化していたのね」「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせ」とレイは云う。画面には『エヴァンゲリオン』を観に劇場に来た観客が映し出されて「気持ち、いいの?」というテロップが出る。ここまでの物語の筋道を考えれば「都合のいい造り事」や「虚構」は、シンジが自分の中で幸福な思い出を反芻する事と解釈できなくもない。だが、僕達はそれを素直にアニメの事だと解釈すべきだろう。
 「じゃあ、僕の夢はどこ?」というシンジの問いに「それは現実の続き」とレイは応え、「じゃあ、僕の現実はどこ?」には「それは夢の終わりよ」と応える。夢は現実の中で見つけるべきものであり、「都合のいい造り事」が終わったところに現実がある。「それは夢の終わりよ」の台詞と同時に、ファンに悪戯書きをされたGAINAXの社屋、『エヴァ』の感想が書き込みされたパソコン通信の画面、そのプリントアウト、「庵野、殺す!!」の文字が表示されたモニターが、画面に映し出される。そして、巨大綾波の首から鮮血が迸る。すなわち、ファンがTVシリーズ終盤以降の展開を不満に思った事こそが「夢の終わり」なのだ(正確には、ファンと作り手のシンクロ率が落ちた事が、結果的に劇中の「夢の終わり」を招いたと云うべきかもしれない)。『エヴァ』の快楽原則の象徴たる綾波レイも、その身体が崩壊していく。皆、現実に帰れ。あまりにも直接的なメッセージだ。

WEBアニメスタイル_COLUMN 

  この強烈な「現実へ帰れ」というメッセージ、それと同じものをぼくは「STAND BY ME ドラえもん」のエンディングでも感じてしまった。

 

なぜ「思い出」は破壊されなければならなかったのか?

 本作が親層、つまりかつてドラえもんを見て育った大人層を対象にしていることは、「すべての、子ども経験者のみなさんへ。」というコピーからも明らかだ。

 彼らをかつての思い出へ、ノスタルジックな風景へ連れて行くこと。「ドラえもん」を通して、子ども時代を振り返ること、そして大人になった自分を見つめ直すこと。それが、本作のテーマであり、狙いでもあろう。

 だが製作陣は、観客に過去に安住することを許さない。最後の最後で、観客は自らの現実、自らの「大人」を、NG集というメタフィクショナルな演出によって意識せざるを得ない。映画で描かれた物語は全て虚構にすぎないことを、劇中のカメラは痛切に物語る。

 「エヴァ」では直接観客を映し出す、つまり直接「現実」を露呈させていたが、「STAND BY ME」では、劇中劇というワンクッションを置きつつも、逆説的に「現実」を浮き彫りにしている。これは、物語に深く感動し、感情移入していた人ほど効果が高い演出だ。だからこそ、製作陣は「意地悪」だと思う。

 映画が終われば、夢も終わる。夢が終われば、現実に帰らなければならない。

 夢は「都合のいい造り事」でしかない。

 劇中で、未来ののび太が、子ども時代ののび太に向かって「ドラえもんは、君の、ぼくの子どもの頃の友達だからね」と言う。

 かつて見た「ドラえもん」は子ども時代のものだ。今大人になって、ひょっとしたら子どもを連れて映画館に見に来ているかもしれない。そして、映画を見て、子ども時代のことを思い出すかもしれない。

 でも、もう「ドラえもん」は観客のものではない。観客は大人だ。「ドラえもん」は子どもの頃の友達であって、今の友達じゃない。大人は大人であって、仕事なり家庭なり、現実に戻っていかなければならない。思い出の中にずっと住み続けるわけにはいかない。

 そんな製作陣からのメッセージを、ぼくは感じ取ってしまった。

 この年になってまでドラえもんを引きずって、毎年映画も見に行って、こんな文章まで書いているぼくにとって、正直すごく残酷な言葉だった。

 さっきの「否」の意見のように、「単なるピクサーの真似」であったらどれほど良かったことか……。

 

 この映画はただ金を払って「ドラ泣き」するための「感動装置」ではない。

 大人はもう子どもには戻れない、そのことを痛切に突きつけてくる残酷な、しかし単なるお涙頂戴で終わらない、よい映画だと思う。

 

 

 

  

 

 

 

 

『ひみつ道具博物館』に見る『大長編ドラえもん』の極北 

 2012年公開の映画ドラえもんドラえもん のび太ひみつ道具博物館』は様々な面で異色な作品であった。冒険感の希薄、明確な悪人の不在、普段取り上げられることのないドラえもんのび太間の友情を主軸としたテーマ……。

だが、私含めドラえもんファンは今までの『大長編ドラえもん』にはなかった面白さを感じ、目からうろこの落ちる思いだったことであろう。

本稿ではその特異性を『大長編ドラえもん』シリーズ全体の流れの分析とともに述べる。

大長編ドラえもん』の傾向

 そもそも通常の漫画『ドラえもん』は金曜日の19時から放映されているTVシリーズの印象そのままの生活ギャグ漫画である。ぐうたらな少年・のび太のもとへやって来た22世紀の猫型ロボット・ドラえもんがポケットから出す珍道具によって巻き起こされる事件を描くことが主で、作者自身も

「主題は、その珍道具が日常生活に巻き起こすナンセンスな影響にあります」*1

と述べるように、のび太たちの過ごす日常空間を基盤とした物語である。

 だが『大長編ドラえもん』では非日常的な舞台が設定され、そこにのび太たち登場人物が投げ込まれる構造になっている。例えば第1作『ドラえもん のび太の恐竜』では恐竜が栄える古代、第2作『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』では地球から遠く離れた開拓星が舞台になっており、この他にもジャングル、魔界、海底、地底、夢の中……など、基本的な非日常的舞台は網羅していると言っても過言ではない。

 この非日常的舞台の中で、のび太たちは命を懸けた冒険をし、ゲストキャラクターとの友情を深め、最後にはまた日常へと再帰していく。これが一般的な大長編ドラえもんのフォーマットである。

 最後に述べた「最終的な日常への回帰」が、通常の連載における『ドラえもん』と『大長編ドラえもん』の断絶を埋めるものとして、最も重要である。作者自身が『大長編ドラえもん』での約束事として

「どんな大事件が起きても、それはなるべく仲間内で解決し、回りの一般社会に、一切影響を残さないということです。これはそもそもドラえもんシリーズが『日常性の中に乱入した非日常性』の面白さを狙って描かれているからです。つまり、どこにでもありそうな町の、ありふれた家族の中でこそ、ドラえもんや彼のポケットの道具が目だって活躍できるわけで、この環境の日常性は絶対に壊すわけにはいかないのです」*2

と語るように、日常性の絶対的保障があるからこそ非日常的空間での同一キャラクターの存在に違和感を感じさせないのである。またこれは逆説的だが、同時に非日常的活劇が日常性を補強してもいる。

 大きな括りでの『ドラえもん』に、空き地や学校といった日常を舞台にする『ドラえもん』と、宇宙や海底などを舞台にする『大長編ドラえもん』が同居できているのは、帰るべき場所としての日常が保証されているからなのである。 f:id:ginjari:20150812002628j:plain

ひみつ道具博物館』の異色性

 2012年公開『ドラえもん のび太ひみつ道具博物館』が異色なのは、先に述べた『大長編ドラえもん』のフォーマットにことごとく反しているからである。その相違点を3つにまとめると、

①冒険感が希薄で非日常性が薄いこと

②明確な悪人が存在しないこと

③(ゲストキャラクターとではなく)ドラえもんのび太間の友情が主軸であること

である。

 まず①冒険感が希薄で非日常性が薄いことであるが、本作の舞台はあらゆるひみつ道具が展示されている未来の博物館「ひみつ道具博物館」であり、のび太たちは基本的に博物館内でしか行動しない。活動範囲の狭さは『大長編ドラえもん』中最高である。また作中の展開も、舞台に沿ってひみつ道具を起点としたものがほとんどであり、通常の『大長編ドラえもん』における展開とは毛色が違う。普段であれば恐竜ハンターや地底人、異世界のロボットなど、「非日常的」な人物と環境が織りなす事件の中で物語は展開するが、本作『ひみつ道具博物館』では、通常の『ドラえもん』で馴染み深い「ひみつ道具」に主眼が置かれ、登場する人物の動機や環境が全てひみつ道具に関係・依存するものであり、非日常性が希薄になっている。

 ②明確な悪人が存在しないことについては、本作のドラえもん一行共通の敵に該当する人物は、ひみつ道具博物館の怪人・怪盗DXであるのだが、彼とドラえもん一行の対立の原因が「ドラえもんの鈴が盗まれたから」「ひみつ道具博物館の展示品を盗もうとしているから」であり、世界征服や密猟など、大それた野望を持っている訳ではないことがその印象を与えている。

 また、のび太たちが傷付けられる、あわよくば殺されてしまう、といったスリリングな展開も本作には存在しない。怪盗DXは怪盗らしく(?)自らの手を汚さないことにしているのか、ひみつ道具を用いて盗みの邪魔の排除はするものの、その行動は水鉄砲での足止めや照明での撹乱など、直接的な危害を与えるものではない。地球の全てを洗い流してリセットする「ノア計画」を企てた天上人や、ロボットの大群で街を焼き尽くした鉄人兵団などを相手取ってきた過去の『大長編ドラえもん』と比較すると見劣りするのは否めない。*3

 ③ドラえもんのび太間の友情が主軸であることについてだが、通常の『ドラえもん』では度々描かれてはいる。有名な最終回「さようなら、ドラえもん」や未来世界から帰ってきたドラえもんを迎える「帰ってきたドラえもん」、忙しいドラえもんのために敢えて一日だけは助けを呼ばないと決めたのび太の根性が光る「ドラえもんに休日を」など、どれも珠玉の名作揃いである。

 だが、通常の『大長編ドラえもん』ではゲストキャラクターが存在し、彼らとの友情を描くことが優先されるため、ドラえもんのび太間の友情が描かれることはまずない。過去の一部作品ではそれほど濃い交流の描かれていないキャラクターとも強引に友情を感じさせる描写がなされ、不自然さを感じさせるものもあるほどである*4

 本作では盗まれてしまったドラえもんの鈴を物語の発端、なおかつ全体のキーアイテムとして配置し、その鈴にまつわるドラえもんのび太の邂逅直後のエピソードを挿入することで、自然な感動を与えることに成功している。

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ひみつ道具博物館』は異端=駄作か?

 以上3つの観点から『ひみつ道具博物館』を見てみるとその特異性が浮き彫りになる。だが私が述べたいのはこの特異性が作品としての面白みを全く損なっていないこと、いやそれどころか増してさえいることである。

 まず、③での感動は通常のゲストキャラクターとの感動とは種類の異なる感動である。彼ら二人には、他のゲストキャラクターにはない時間の積み重ねがある。ある種外部依存的な蓄積ではあるが、それを承知している観客は、スクリーンに映し出されている物語と、普段テレビで見る二人の日常とを自然に重ねあわせる。だからこそ感動はより深いものとなる。

 それを可能にしているのが、①での舞台の矮小化である。敢えてゲストキャラクターを全面に押し出さず、作品の内宇宙的空間を舞台にすることで、通常の『ドラえもん』内の日常をより展開しやすいものにしているのである。②ものび太たち全員が危険に晒されるのではなく、ドラえもんだけが鈴を盗まれるというミニマルな危機を抱えることで、鈴にまつわるのび太とのエピソードが展開しやすくなっていると言える。

ひみつ道具博物館』は『大長編ドラえもん』の極北である

 このような特異性をもって、私はメインスタッフ・声優陣が一新された2006年以降の新体制『大長編ドラえもん』の総決算としてこの『ひみつ道具博物館』を位置付けている。

 そもそも私は大長編を3つの時期区分に分類している。

 まず、原作者である藤子・F・不二雄が存命で、映画脚本と漫画版『大長編ドラえもん』を手掛けていた第1作『のび太の恐竜』〜第18作『のび太のねじ巻き都市冒険記』を第1期とする。

 次に藤子Fが亡くなったものの、引き続き同様のスタッフ陣と藤子プロで続編を制作した第19作『のび太の南海大冒険』〜第25作『のび太のワンニャン時空伝』を第2期とする。

 最後に、メインスタッフ・声優陣が一新され、いわゆる「水田ドラ」体制で制作され、現在も続く第26作『のび太の恐竜2006』〜を第3期とする。今話題にしている『のび太のひみつ道具博物館』は第33作に相当するため、第3期の作品である。先の言葉を言い直すと、私は第3期『大長編ドラえもん』の総決算としてこの『ひみつ道具博物館』を位置付けているのである。何故か。それを今から述べよう。

 まず第3期の特徴として、リメイク作品の制作が挙げられる。『のび太の恐竜』から始まり、『魔界大冒険』、『宇宙開拓史』、『鉄人兵団』、『大魔境』、そして来年2016年公開予定の『日本誕生』など、第3期に制作される11作の内約半分の6作が過去のリメイク作品である。

 第2期から第3期への移行段階で、メインスタッフも声優もほぼ総とっかえが行われているのだから、第3期以降のアニメ『ドラえもん』とそれ以前の『ドラえもん』は別物であって良いはずである。つまり、この時点で第3期『大長編ドラえもん』は『ドラえもん』のキャラクター・設定だけを借りた一種の2次創作物であるはずなのである。

 この継続性は第1期から第2期への移り変わり、即ち原作者たる藤子Fの死によっても一度危ぶまれているが、「映画」というメディアの特質上、原作者一人の創作物ではあり得ない訳であり、そういった意味で完全な断絶はメインスタッフの継続によって免れていた。  だが、第3期では訳が違う。メインスタッフも変わり、声優陣も変わってしまえば、普通作品は同じ皮を被っただけの「ニセモノ」になってしまう。だからこそ、その継続性を取り繕うために、旧世代の取り込みを目論んだリメイクと完全オリジナル作品を交互に制作しているのであろう。

 この観点から、私は第3期『大長編ドラえもん』は藤子F存命時の第1期『大長編ドラえもん』の二次創作物的性格を色濃く持っていると考える。

 第3期ではセルフパロディやファンしか気付き得ない小ネタなどが度々盛り込まれているが、これも単純なファンサービスとしてではなく、二次創作的性格の証左であると考えることもできるだろう。ドラえもんが読んでいる本を見て、「あっ、ドラヤキ百科やん」と気付けるマニアが全国にどれだけいるのか。狭いコミュニティ内でしか通じ得ない言葉を使いたがるオタク的なクローズドな世界が透けて見える演出が第3期からは散見されるようになった。

 そして、この『ひみつ道具博物館』である。内宇宙的な舞台やストーリー全体もそうだが、背景にこれでもかと細かく描かれるマイナーなひみつ道具の数々は、明らかに「内向き」な視点を意識した演出であると言えよう。オープニングテーマの『ドラえもんのうた』前のプロローグで、最後にのび太が「ドラえも〜ん」と叫ぶ第1期からのお約束の意趣返しで、本作ではドラえもんが「のび太く〜ん」と叫んでさえいるのだから、本作は第3期の二次創作的性格の極北点と呼ぶべき作品であろう。

 以上が私の主張である。

 だが私は初めに述べたとおり、『ひみつ道具博物館』に『大長編ドラえもん』の新たな可能性を見た。今後同様の路線での作品を作ることができるのかは分からないけれども、ただよりよい作品を世に出し、末永く『ドラえもん』が続いてくれればそれで良いと思う。

 私にとって『ドラえもん』について語ることは実存について語ることに等しい。それだけに『ドラえもん』が無くなって、私が老人になった時語る言葉を失ってしまうのが怖いのだ。こんな人間は少ないだろうけれども、私一人ではないはずだ。今後も『ドラえもん』が、そして藤子・F・不二雄が読みつがれていくことを私は切に望む。  

*1:藤子不二雄自選集4 ドラえもん ナンセンスの世界2』

*2:『フィルムコミック のび太と夢幻三剣士下巻』

*3:これは藤子Fの戦争体験に起因するものであっただろう。鉄人兵団のラスト、「即席落とし穴」で身を隠しながら鉄人兵団の到来を待つシーンは特に戦場的だ

*4:これは新体制になってから顕著に見られる。『人魚大海戦』などもそうだし、全体的に「泣き」についての過剰な演出が目立ち強引さが目につくのは確かである。

筒井康隆『虚人たち」』レビュー 

虚人たち (中公文庫)

虚人たち (中公文庫)

虚人たち」はメタフィクション小説である

 私はいま、レビューを書き出した。 書き出したは良いが、そもそもメタフィクションとは何だろうか。本論に入る前にしばし立ち止まって考えてみたい。

 「メタ」という接頭辞そのものは「高次な−」「超−」といった意味のギリシア語である。だが「高次な作り話」「超虚構」と換言しても感覚的理解にはなかなか結び付かない。

 メタフィクションの定義付けはパトリシア・ウォーや巽孝之由良君美などにより試みられているが、正直に言ってどれも厳密かつ専門的で、序論に掲げるにはふさわしくない。なるだけ平易な定義として、過去のWikipediaにて「典型的なメタフィクション的仕掛け」として記載されていたものを引用すると、以下のようになる。

一 小説を書く人物に関する小説。
二 小説を読む人物に関する小説。
三 表題、文章の区切り、プロットといったストーリーの約束事に抵触するストーリー。
四 通常と異なる順序で読むことができる非線形小説。
五 ストーリーに注釈を入れつつストーリーを進める叙述的脚注。
六 著者が登場する小説、監督が登場する映画やドラマ。
七 ストーリーに対する読者の反応を予想するストーリー。
八 ストーリーの登場人物に期待される行動であるがゆえにその行動をとる登場人物。
九 自分がフィクションの中にいる自覚を表明する登場人物(第四の壁を破る、とも言う)。
一〇 フィクション内フィクション。

  六などはしばしばマンガで見られる表現であるし、一〇は夢野久作ドグラ・マグラ」内に登場する「ドグラ・マグラ」という書物や、竹本健治匣の中の失楽」でナイルズが書く推理小説などを連想していただければお分かりになるだろう。いわゆる「枠小説」もこれに該当する。

 九はベルトルト・ブレヒトの戯曲で頻繁に用いられた技法で、舞台の両脇とその三面の壁に対して、舞台と観客との間の壁としての「第4の壁」を意識的に破壊し、観客に自らが観ているこの劇が虚構であることを絶えず意識させる、すなわち異化効果を与えることを意図して書かれたものが多い。裏を返せば、観客を虚構内へ嵌入させる行為とも言える。

 このまま逐一例を挙げると瑣末になる。先ほどの十項目の共通項を分析してみよう。

 そもそも本というメディアは、読者と作者の暗黙の了解の上に成立している。例えば、小説ならふつう表紙から裏表紙まで順に読むことに「なっていて」その通りに読めば展開を追うことができるとか、更に根本的なところでは、印刷された文字は上から下へ、右から左へ読み進めることになっているといった至極当たり前のルールである。

 だが、そのようなルールは一日にして諒解されるものではない。かつて出版の萌芽が芽生え、「本」という媒体が読み手に十分かつ継続的に供給されるようになって初めて、暗黙ゆえに確固たる規則が成立していったのである。

 メタフィクションとは本来、読み手と書き手の間に存在する空気のような規則を打ち破るためのもう一つの「規則」であった。その観点から見ると、先ほどの10項目から浮かび上がってくるものがないだろうか?

 だがここで重要なのが、同時に規則を破る規則である以上、メタフィクション自体もある種の「お約束」的な読者・作者間の戯れという枠に囚われざるを得ないという、代え難い事実である。

 先に挙げた評論家・巽孝之は著書『メタフィクションの思想』冒頭にて

「かつてメタフィクションは二〇世紀後半を彩るアンチ・リアリズム文学の最尖端と見られていた。それは「文学は現実を模倣する」という古典主義的前提に則るフィクションの諸条件を根底から問い直し、最終的にはわたしたちのくらす現実世界の虚構性を暴きたてる絶好の手段だった」

 と述べている。全て過去形であることにご注目下さい。メタフィクションがいくら虚構の虚構性を高め、極限にまで達したとしても、虚構の外部に鎮座する「作者」それ自体の存在を浮き彫りにする機能をも同時に強化してしまう哀しきパラドックスは決して解消されることはない。フィクションの前提条件を切り崩すスリルを味わうメタフィクションの構造が、メタフィクションを人畜無害な読者・作者間の遊戯にしてしまう矛盾は、目を背けることは簡単だが、道に横たわる巨大な礫として切り崩されることなく存在し続ける。

 では文学は何もしてこなかったのだろうか? いや、決してそうではない。

 筒井康隆自身も「虚人たち」執筆後初の長編として「虚航船団」を上梓し、メタフィクションの読者を虚構外へ連れ出し感情移入を阻害する機能を更に推し進め、フィクションがフィクションとしてできることを濃縮し、文房具への感情移入を読者に要請している。また近年では、石原慎太郎に「言葉の綾とりみたいなできの悪いゲーム」などと酷評された第一四六回芥川賞受賞作「道化師の蝶」の作者たる円城塔はメタフィクショナルな実験(本人曰く「ただ見たままを書いている」のだが)を行っている。

 少々筆が滑ったようだ。イントロダクションはここまでにして、「虚人たち」のレビューに入ることにしよう。

既存のフィクションを破壊する実験的手法

今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしないことをしているという言い回しを除いて何もしていない。(『虚人たち』)

 この書き出しから既に、作者から読者へ、この物語の特殊性の宣言がなされている。この二文には三つの次元が存在している。すなわち、

  1. 「である」

2.「『Aである』と書かれた/読まれた」

3.「「『Aである』と書かれた/読まれた」ということはXである」

の三つである。メタフィクションは3によって1から2を切り出すことで生成される。だが、この事実は読者の意識内に常に存在するものであり、自明であるからこそ、ふだん意識上に登ってはこない事実である。そうしたあらゆる小説の前提の強調、つまり虚構性の前面化とそれを主題とする小説であることが、物語が叙述されると同時にそれが批判されてゆくという「虚人たち」全編に通底する文体で早くも提示されている。

 筒井康隆が「虚人たち」へ持ち込んだ手法は演劇由来のものが多い。筒井自身の学生時代に演者として舞台へ立った経歴が作用した側面も多分にあろうが、そもそも小説とは虚構の表現形式として最も最後に確立されたものであることは、その形式的自由度が雄弁に物語る。原始の祭式儀礼をベースメントに演劇、戯曲が生まれ、その末裔として現在の小説は成立する。すなわち小説には現実との間に演劇という便利な手本が介している。演劇とはそもそも演じられるドラマと演じることそれ自体のドキュメントが重ね合わされる特殊な虚構の形態であり、「そろそろ演劇の美学の呪縛を逃れて現実そのものに立ち返る必要がある」と述べる筒井は自身の演劇・戯曲経験を還元し小説に応用したのであろう。

 先に引用した文は、執筆中に「野性時代」に連載され「虚人たち」創作ノートの様相を呈するエッセイ「虚構と現実」*1 による。この中で筒井は「時間」「社会」「人物」「事件」「場所」「性格」など要素を分類し、手法の原点、意図について記しており、以下ではその分類に従いつつ手法を紹介していく。

時間――「忘れられた時間の復権」を目指して

 まず時間について。エッセイ「虚構と現実」内で「時間の均質性・恒常性を表現した小説がないのはむしろ不思議」と述べ、今までの小説が省略してきた時間の中に小説の美学を発見=「忘れられた時間の復権」を目指すと記されている通り、この小説は厳格に定時法に則って書かれている。具体的には「原稿用紙一枚=一分」というルールに則り、物語は進行していく。普段あまり意識することはないが、通常の小説では現実の時間の流れの直線性・恒常性は小説内では失われている。時間の流れは必ずしも一定ではないし、主人公が移動している時間や寝ている時間などの描写は省かれる。ストーリーに不要な場面では省略が行われるし、逆にほんの一刹那を描くのにも必要とあれば字数を割いて濃密な描写がなされることもある。他にも唐突に(通常それは唐突ではないのだが)登場人物の回想が入るなど、作中時間の伸張及び往復は自由に行われるのが普通である。

 だがこの小説では時間の流れが描写される時間(=主人公の意識の流れ)と完全に等質化されている。車で移動するのであればその風景が描写されるし*2 食事中であればその味やら歯応えやらの描写 *3 に字数を費やす。極端な例では主人公が気絶している間は真っ白なページが数ページ続き、それがさも当然かのように物語は続く。そして時間の流れと描写との一致を目すゆえ、文体は過去形ではなく現在形で貫かれており、鉤括弧付きの台詞が入る箇所以外改行はなく、更に読点に至っては一つ足りとも存在しない。

 また、この小説では「現在の意識を持ちつつ時間を移動する」ことが可能である。これは我々が入眠中の夢において現在の意識を持ち得るままに幼少期に回帰するような時間体験を小説で描写する試みである。これにより、主人公は事件が終了した後の出来事などを知ることができ、モザイク状の時間を自由に往来する。ヴォネガットスローターハウス5」で主人公ビリーやトラルファマドール星人が、決定された運命への介入は不可能だが、自分が思う人生の瞬間を選んで焦点を合わせある種の「時間移動」を行う描写を思い描いて頂ければよい。

場所――「神の視点」は存在するか?

 場所について。3人称の小説では作者がいわゆる「神の視点」から出来事を描写し、読者は神の視点から描かれる同時性を驚くほど素直に受け入れている。だが一方で、作者は同時性を謳いつつも任意の場面展開で時間の均質性を破ることができるのだから、これは読者・作者間の取り決めに過ぎず、読者は神の視点=作者の視点という取り決めに諾々と従っているに過ぎない。相互の諒解に依存する以上、付随する他の約束事は更なる馴れ合いを生み出すばかりであり、そもそもの諒解を瓦解させるところから始めなければならない。しかし瓦解させ新たな諒解を取り決めたところで、結局諒解は諒解に過ぎず、馴れ合いの再生産が進むのみである。

 では1人称ではどうか。1人称小説では、主人公がある事件の発生を知覚する瞬間と作中で事件が発生する時刻は字面上=読者の認識上同時であると言える。これを発展させたのが読者の認識と主人公の経験の同化、つまり過去の事件を「現在知り得た事件」としてではなく、その事件が発生した時刻においては別の場所で別の行動をしていた主人公に、同時にその事件をも経験させる手法である。「同場性」とでも言うべきこの手法は「遍在性」とも換言可能である。例えば、Aの場所でB行為をしている人物が場所CでD行為をしていてもよく、これは一種の遍在である。

人物――「虚構内存在」とは何か

 人物について。この小説における登場人物は、我々が自らを現実内存在であることを自覚しているのと同様にして、己が「虚構中の登場人物」であることを意識している、すなわち筒井の言葉で言う「虚構内存在」である。現実世界で我々は現実に虚構を重ね合わせ、自他を問わず「主人公」「脇役」の配役を振り分けたり、卑近に「もしこれが小説であったなら」に類する問いかけを成す。だが現実世界に「主人公」は存在せず、単に現実を虚構視しているに過ぎない。

 ただこの虚構視が自らの現実的存在を前提としている以上、虚構内でそれを徹底するには登場人物が自らが虚構的存在である前提を認識せねばならない。「新しい虚構的存在の創造ひいては新しい虚構の形式の発見」を目する筒井は、演劇的人物造形、すなわち現実の人間が演ずる人物としての登場人物を「擬似現実的存在」とし、「真の虚構内存在」を試作する。現実から峻別された「完全な真空」を構築する試みであるにも関わらず、筒井はその目標について「読者がその小説を読んで現実存在である自分を虚構内存在ではないかと疑うか、そこまでに及ばなくとも少くとも作中人物が悩む非存在感に似たものを少しでも抱くかどうかにかかっている」と述べ、最終目標が読者=現実への波及であるとし、パフォーマティヴに読む行為を捉えているのは興味深い。

 具体的には、この小説の主人公であるとされる「木村」はこの小説を描写する役割を与えられてはいるものの、自らの置かれた状況を全く知らないまま物語は開始される。鏡を覗いて自分が中年の男性であることを知り、玄関の表札を見て自分の名前を知るといった具合である。こういう場面ならば登場人物はどのように行動すべきか、相手の出方によって小説的にはどのように反応すべきか、これは作者の張った伏線ではないか、などということを随時自己言及的に考えながら行動する。

事件――虚構を模倣する現実からの脱走

 事件について。デビュー直後は「疑似イベントSF」作家として名の売れた筒井は、現実を疑似虚構に堕したとして、現実を描く虚構は「現実の疑似虚構性を強調したいわゆる疑似イベントもの」あるいは」「虚構こそが真の現実という逆説」の二択を迫られているとした。だが前者は現実の疑似虚構性を強調した虚構を現実が模倣するいたちごっこにしかならないとして、後者を追求することとなる。社会に大きな事件が起きることを描くだけでは前者と変わり映えしない。故に個人の身に同時にいくつもの事件がふりかかる物語として虚構性を高めることに成功している。

 物語の終盤、『虚人たち』は筒井の過去作『脱走と追跡のサンバ』との連続性をあけすけに示す。誘拐された妻と娘を助けられず全てを失った主人公の悲しみは、既に書き終わられた『虚人たち』という小説において、自らを虚構内存在と知る主人公だからこその諦観であろう。読まれることによって何度でも起動するものの書き終わられた『虚人たち』は実体的な変化を起こさない。逃れられぬ定めを知りつつも物語を進行する主人公、そしてその「純然たる虚構」であるものの内面にまで踏み込み、通常の小説における登場人物同様の感情移入を抱かせる不可思議さこそが、『虚人たち』がメタフィクションマイルストーンとして認められる所以である。

 そして本作は、テレビ画面に始まりテレビ画面に終わる。スクリーン上に展開されるドラマはテレビ局から電波で送られてくるのであって、テレビをかち割ってみたとしても決してその中に実体など存在しない。虚構とは何か。裏返して、現実とは何か。余韻を残しつつ『虚人たち』は終わる。

個人的感想

 私が『虚人たち』に、ひいてはメタフィクションに心惹かれるのは、結局「普通の小説」とは違う楽しみを、『虚人たち』に限ればラディカルな楽しみをもたらしてくれるからである。あまりな自明な前提を眼下に引きずり出し、ぶち壊し、新たな世界を構築する。そのスクラップ&スクラップな精神にノックアウトされているのである。

 確かにメタフィクションは構造自体に矛盾、哀しきパラドックスを抱えている。しかしそれを指摘し改善する読み手もいれば、その場に甘んじて、自動ピアノのような不確定性、デフォルメされた虚構による不条理、そして現実へのゆらぎ、そんなものを享受する読み手もいて良いのではないか。作者の手の内にいようがいまいが、分かっていようが知らないままであろうが、作品はそこに存在する。

 「なぜこの作品が好きなのか?」という問いに鮮やかな解答を提出できることは稀である。よいですねー、すごいですねーに類する淀長言語で語るのが関の山である場合のことが圧倒的に多い。そんな中、割合まっとうな答えを用意できる作品に出会えた者は幸せである。用意できなくとも、せめてもの解答を求め、もがけるだけの意欲を、活力を得られたならば、それだけで十二分に恵まれている。

 無論私もその一人だ。

めっちゃ参考にしました。むしろさせて頂きました。

*1:『着想の技術』(新潮文庫)収録

*2:p.57「あなたはなぜそんなにまるで描写するように町並みの店店を眺めるのですか」、以降頁数はすべて中公文庫版『虚人たち』準拠

*3:p.69「なぜそんなに描写するような食べかたをするのです」

2015/6/26 ドラえもん感想

微妙に某所のものからリライトしています。よそ行きじゃないバージョン的な。

「海をひときれ切りとって」

てんとう虫コミックス ドラえもん 44巻「海をひと切れ切りとって」より)

いわゆるひとつの水着回。 原作では秋の話のようですが(のび「泳ぎたいよ~~!」ドラ「夏が終わってからあんなこといって……」)、現在は梅雨真っ盛り。「夏が短すぎるんだよ」とドラえもんを指さしながら真顔で語るのび太は「学校が遠すぎるから」遅刻すると先生に堂々と答えた時と全くぶれない。 「外に出ないで泳げる環境を作る」話といえば、ドラえもんの「ルームスイマー」、キテレツ大百科の「粘土水」などが思い浮かびます。F先生の引きこもり傾向表れているようで興味深い。更に進むと「海に入らず海底を散歩する方法」なんてのもある訳で。
海を切り取りに南国へ行くドラえもんが砂浜に熱がる姿がとってもキュート……なのですが、お前ちょっとだけ地面から浮いてるんと違うんか! と、思わず無粋なツッコミが出ます。
原作が短いこともあって後半のナイアガラの滝やモアイ像などはオリジナルのようです。モアイ像を持ってきてドヤ顔ののび太に対して「のび太さんダメじゃない」と冷静にたしなめられるしずかちゃんの気丈さは、原作で1つ前に収録されている「ハワイがやってくる」で、「鍾乳石の先っぽ」を取ってきたジャイアンに対して激昂した出木杉を連想させます。
にしても、同級生の女の子に「一緒に泳ぎの練習しましょ」なんて誘われるシチュエーションは大変に羨ましいわけで……(笑)

「あとはおまかせタッチてぶくろ」

てんとう虫コミックス ドラえもん 40巻「あとはおまかせタッチてぶくろ」より)

のび太のクズぷりが溢れる話。
終始ひみつ道具を自分勝手に使うのび太を待ち受けているのはやっぱりしっぺ返し。「驕れる者久しからず」の精神をしっかりと伝えていきます。
しずかちゃんが草むしりをする姿を見て、すぐに「手伝うよ」と言える出木杉と言えないのび太……。僕も気配りの出来る男になりたいものです。
原作では「てぶくろどろぼう」と不名誉な称号を贈られていたのび太ですが、今回のアニメでは特に無し。また、ドラえもんに勉強を押し付けた直後のF先生のお家芸とも言える3連コマ*1が省略されていてちょっぴり残念でした。
珍しいタケコプターでの低空飛行シーンも見どころでしょうか?
何だかんだ言っても帰ってきたのび太に対して温かな言葉を掛けるパパ・ママ・ドラえもんの姿は、それ自体が過剰性によるギャグとはいえ、額面通りに受け取ると家族愛を感じて中々感動的です。
草むしりを押し付ける相手がイヌからネコ(小宇宙戦争などに登場する「クロ」でしょうか?)に変更となり、ラストシーンに登場するネコもそのままクロになっていたのは……どうなんでしょう。原作での謎のドラえもん風ネコも嫌いではないのですが。

「腹ペコのび太の3日間」

てんとう虫コミックス ドラえもん 44巻「腹ぺこのつらさ知ってるかい」より)

いきなりボクシングにお熱なのび太も面白いのですが、滔々と戦時中の空腹を語るパパと「今は食べ物があるからいいじゃない」と平然とかつボクシングから目を離さず答えるのび太には世代間格差を感じざるを得ません。
原作での、ドラえもんが置いていったヤセールを見て「なんだこの薬は」と言った次のコマには「うまい」といってパクパク食べているのび太の姿がツボだったのですが(薬って自分で言ってるじゃん!)今回は薬とは気付いていなかったような。

食べ物を求めて商店街へ行くシーンでは、「本日休業」の張り紙に集中線が入っていて思わず笑います。
また、ジャイアンとのゲームが将棋からオセロに変わっていましたが、これはアニメで絵で見せる以上、勝ち負けを分かりやすく示すための工夫でしょう。
それにしても、オチが秀逸。4日後も食べられないんですよね。手動「先取り約束機」的な。

*1:同じ構図で固定しながらも、キャラの振る舞いを変え「ズラす」ことで笑いを生むF先生の得意技。これとか。f:id:ginjari:20150628190850j:plain