藤野可織『おはなしして子ちゃん』

おはなしして子ちゃん (講談社文庫)

おはなしして子ちゃん (講談社文庫)

文庫落ちしたのを書店で見かけたので購入。藤野可織作品は一昨年の「パトロネ」読書会以来。

おはなしして子ちゃん

理科準備室のホルマリン漬けにされた猿が、喋るどころか話をせがんで吸収しては復活して人を襲う。一見無駄に見える(授業で使わないし)ホルマリン漬けの標本も、話す機会が奪われた女の子にとっては意味のあるものになり得たのだというお話。

ピエタとトランジ

行く先々で事件を誘発する異能力の持ち主である女の子(黒髪真面目)と、JK好きな年上社会人に騙されてた頭の弱めな女の子(ギャル風)のキャラ文芸風百合推理もの。藤野可織ってこんなものも書くのかと少しびっくりした。

アイデンティティ

猿と鮭を強引に縫い合わせて人魚にして輸出する職人たち。失敗作の主人公(人魚)のアイデンティティをめぐる葛藤が主題なんだけど、円城塔を連想させるユーモアが全編に溢れていて面白い。みんなが「人魚です」と言えるのに、ひとりだけどうしても「鮭です」「猿です」と言ってしまうところとか。

今日の心霊

撮る写真が全て心霊写真になってしまう女性。いけしゃあしゃあとホラを吹き続ける語り口が好き。プリクラはセーフ(機械がシャッターを切るから)とか、「彼女が撮影したネガは最後」で「ん?」と思わせておいてからデジカメ全盛期の到来とか。

美人は気合い

宇宙船の一人称なのでSF!!

エイプリルフール

毎日一度だけ嘘を付かないと死ぬ女の子の話。
一度だけというのがポイントで、周りも女の子を殺したくないから気を遣ってしまう。つまり、誤解から生まれた発言を事実を修正して嘘でなくしてしまうことになり、次第に女の子は何一つものを言わなくなってしまう……ママから言われた「私は蝶を食べるのが嫌いです」という明白な嘘以外は。「アイデンティティ」に引き続きアイデンティティとか自己承認の話か。

逃げろ!

強迫観念に襲われる男の話。

ホームパーティーはこれから

新婚の妻が、夫の会社の同僚たちを招いてホームパーティーを主催することに。
かつて輝いていた昔の自分、今でもSNSで承認され続けている自分(あたし)と今の自分(私)を摺り合わせようともがくも、ホームパーティーは始まってしまい、気が付けば異常な数の人が……、というエスカレーション式のホラー。またアイデンティティの話か。

ハイパーリアリズム点描画家の挑戦

人生をかけて超精密な絵を点描で描いた芸術家たちの展覧会。展覧会での場所取り争いが暴力的であるある。

ある遅読症患者の手記

本が有機物で、透明なパックを開けると生長をはじめるような世界で、読むのが遅くて毎回本を殺してしまう主人公。読書の時の強迫観念(早く読まなきゃ、とか細かいところが気になって先に進めない、とか)がホラーの形でよく出ているなあ。
本絡みの奇想で、スラデックの「教育用書籍の渡りに関する報告書」を思い出した。

全て並々ならない奇想に溢れている。
というか、「おはなしして子ちゃん」「美人は気合い」以外の8作は群像2013年8月号に一挙掲載、ってどういうことなんや。えげついなあ。
おすすめ。

筒井康隆『パプリカ』について

書いていたら所定の文字数よりもかなり長くなったので。どうしようか。結局昔の思い出話を枕に使うつもりが、思いのほか長くなっただけの話なので、全部削ればいいんだとは思うけど。

 

***

パプリカ (新潮文庫)

パプリカ (新潮文庫)

 

 

 個人的な話で恐縮だが、ぼくが映画『パプリカ』を観たのは高校二年生の時、修学旅行でシンガポールへと向かう機内でだった。
 その時、ぼくは筒井康隆こそほぼ全作読んでいたけれど(プロフィールに書くようないわゆる「好きな作家」だったから)、アニメーション監督としての今敏の名も、ミュージシャンとしての平沢進の名も知らなかった。
 帰国後、ぼくたちは旅行の感想文を書かされた。それは一冊の黄色い表紙の本として綴じられた後に修学旅行文集として配られ、今も家に残っている。
 マーライオンについて、猥雑なチャイナタウンについて、あるいは厳しく照りつける熱帯の陽射しについて書かれた文章が並ぶ中、ぼくの感想文は全編、映画『パプリカ』がいかに素晴らしいか、という内容で占められていた。
 もちろん、皆と同じことは書くまいという青臭い自意識、あるいは、ぼくも関西人だから、友達からの”ウケ”を狙うための冗談が動機の半分だっただろう。だが、もう半分は紛れもなく『パプリカ』に対する感動がなしたもので、それから数年が経ち当時の自分を少しは客観視できるようになった今でも、『パプリカ』に対する評価は変わらない。ぼくにとっては、風光明媚な観光名所やエキゾチックな雰囲気と、『パプリカ』の素晴らしさは、どちらも同じ程度には人に伝えたくなるものだったのだ。
『パプリカ』は、筒井康隆の十八番であるところの精神分析や夢をメイン・テーマとして打ち出した作品だ。他人の夢を映像化してモニタリングし、介入することで精神疾患を治療するPT技術が発展した近未来。精神医学研究所に勤める千葉敦子は、同僚の時田浩作とともにノーベル生理学賞の有力候補とされている優秀な研究者だが、彼女には「夢探偵・パプリカ」としてのもうひとつの顔があった。すなわち、公に治療を受けられない有力者からの依頼を受け、彼らの夢へと侵入することで無意識下の抑圧を探し出し神経症を治癒へと導くのだ。
 新潮文庫版の解説で斎藤美奈子が指摘している通り、『パプリカ』は物語全体が夢を模した構造になっている。「今の時間(引用者注・深夜二時頃)に見る夢はだいたい短いんだけど、情報が凝縮されてるわ。芸術的短篇映画ってところかな。朝がた見るのは一時間ほどもある娯楽的な長篇特作映画」という千葉敦子=パプリカの言葉通り、第一部では社内政治に巻き込まれる能勢や、警視監にまで出世しながらも家庭内の不和に悩む粉川、あるいは精神医学研究所内での研究者同士のいがみ合いなどがSF的な奇想抜きで展開されるのに対し、第二部では最新のPT機器・DCミニを巡り、人の夢から夢への往来、あるいは夢から現実への干渉といった超現実的な事件が多発する。また、一度の睡眠で起こるレム睡眠は通常四、五回とされているが、物語内部で起こる夢も五回とそれに対応しているのも傍証となるだろう。
 印象的なのは、最後の場面での能勢の台詞だ。ジーン・ウルフの名作「デス博士の島その他の物語」の結末部、「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも獣人も」を思い起こさせるような、本あるいはフィクションというものへの言及。読者へ、読書という夢から醒めるよう静かに誘導するかのようなその後のエピローグも含め、『パプリカ』全体が夢のメタファーであることは間違いない。こうなると、いささか男性に対して都合の良すぎるパプリカのキャラクター性、女性性も「夢だから」という逃げを打てることを見越して意図されたものなのだろうと、悔しいが結論付けなければならないだろう(当時の連載誌が女性誌であることにも注目せねばなるまい)。
 だが、『パプリカ』を読むこと自体が夢を見ることのメタファーだとすれば、我々はどうすればよいのだろう。
 ウルフが「デス博士〜」で描いたのは、フィクションによる現実逃避の肯定だ。辛い現実を生き抜く少年に対して与えられるフィクションの癒しの作用をウルフは描いた。
『パプリカ』も同じだ。能勢が夢でのパプリカのとの再会を確信するように、我々も本書を開けばまたパプリカに再会できる。それがこの物語の良さでもあり、同時に限界でもある。山形浩生は「デス博士〜」を評してそれ自体として閉じた静物画的な世界と言ったけれど、この言葉はこの物語に対しても当てはまってしまう言葉だろう。
 ぼくは修学旅行文集を数年ぶりに開くことで、昔のぼくと再会した。『パプリカ』にしても修学旅行の文集にしても、本自体、そこに書かれてある文章は変わらない。
 けれど、読み手であるこのぼくは少なくとも変わり続けているはずだ(現に、当時の青臭さは今だとちょっと厳しい)。そんな中で、かつての自分を否定することなく、昔のぼくも今のぼくも両方が素晴らしいと思える作品に出会えたこと、それ自体は大変喜ばしい、めったにないことなんじゃないか? それこそ、物語が物語として真に優れている証拠だと言えるかもしれない。
 夢と現実の重なり合う悪夢的な世界、ディック感覚(便利な言葉だ!)が本書の魅力なのかもしれない(同時に、それらを卓越した映像美で表現した今敏の映画版の魅力も)。だが、物語をなぜわれわれは求めるのか、というテーマをも考えさせられるあのラストの余韻こそが、最大の魅力なのではないだろうか。

 結局バイトは見つかった。いずれ報告できることになるだろう(と思うのだけど、初っ端から少しつまずき気味なのが気になる)。

 パロディ・オマージュ元を見つけることを無常の喜びと捉える人々も数多く、僕なんかもその一人ではあるのだけど、自分が作り手に回った時、無意識の内に別の作品の影響をもろに出してしまっていた場合の気恥ずかしさというのはちょっと異常だ。

 例えば、久米田康治が『さよなら絶望先生』でドラえもんのある話のオチを無意識的になぞってしまっていた、ということが昔あった。当時、僕を含めたファンは、久米田先生が藤子ファンでドラえもんパロを過去にもやってきたことを知っていたから、今回もその一つなんだろうなあ、と感じていたはずだ。でも実際は、無意識にパクってしまっていたということで、本人は弁明していた(結局小学館側も別に気にしない、と返事をしたそうだけど、本人は随分傷ついていたようだ)。

 この場合恐ろしいのは、自分の制御下に置けない自分というものが、作品と言う形をとって目の前に現れてくることだろう。

 ことばそのものが自分オリジナルのものであることはなくみな借り物だということは前提としても、借り方に偏りが無意識に生じてしまっていることはまた別問題だ。

 

 という訳で、ひとり傷付いていた。

 傷付きながらも次に活かそうと思い、現実逃避に競作用の原稿に手を付け始めるなど。そんな土曜日。

 

 

2016年度読んだ本ベスト5

 少しでも役に立つような(役に立ててくれる人がいそうな)ベスト記事を書いてみる。

第1位 ジョン・スラデック『ロデリック』
第2位 ハーラン・エリスン『死の鳥』
第3位 J・G・バラード『クラッシュ』
第4位 ジーン・ウルフケルベロス第五の首』
第5位 小林恭二『ゼウスガーデン衰亡史』

以下解説。
 スラデック奇想コレクションの短編集があんまり合わなかったので不安だったが、古本屋で拾った『遊星よりの昆虫軍X』でドハマりして、たまらず『ロデリック』も読んだ。
 ロボットのロデリックくんのビルディングスロマンというのが骨子なんだけど、周りの人たちはみなロデリックのことを人間だと思って扱うし、でもロデリック自身は自分がロボットだということを知ってる。その矛盾がドタバタを引き起こして果ては人とロボットの違いというロボットSFには避けて通れないところに問いを投げかけていたりする。訳の分からなさ(例えば虚航船団の第1章とか、とにかく何かが起こってるんだけど全部は分からなくて、でも面白いというアレ)が面白い一冊。
 エリスンは収録作全てが傑作という訳のわからない代物。
 クラッシュは……イカれ切ってて、でも格好いい。
 ウルフは読書会もした(「アメリカの七夜」)しね。この読書会の下調べで久し振りに英文読んだなあ。向こうにはWolfewiki(http://www.wolfewiki.com/pmwiki/pmwiki.php?n=WolfeWiki.Contents)なんてものがあるんですよ。

 小林恭二はS先輩におすすめされて読んだのだけど、この間冬コミで某先輩とこの話になった時、S先輩におすすめしたのはその先輩だったということが分かったりもした。伴名練「ゼロ年代の臨界点」みたいな話。

 漫画だと、つばな『第七女子会彷徨』完結がめでたい。ばりばりのハードSFは敬遠しがちで、日常のなかに潜むセンス・オブ・ワンダーとかが好みな人には読んで欲しい。

 来年はどうなるんだろう。大体自分の好みが分かってきたような、そうでないような。とりあえずバイト探したいなあ。

 

 

 

クラッシュ (創元SF文庫)

クラッシュ (創元SF文庫)

 

 

ケルベロス第五の首 (未来の文学)

ケルベロス第五の首 (未来の文学)

 

 

ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)

ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)

 

 

6月の読書

諸事情あってバラード(及びその周辺のニューウェーブSF)を読みまくらないといけない状況にあるので、来月からしばらくはそんな本ばかりが並ぶでしょう。と言ってる端から『野﨑まど劇場』を読んでげらげら笑ってたわけですが。奇想マガジンに感謝。

 

 

2016年6月の読書メーター
読んだ本の数:21冊
読んだページ数:4811ページ
ナイス数:12ナイス

J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイドJ・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド感想
スターウォーズを貶しまくり、ダリを崇め、バロウズを賞賛するバラード。書評もバラードの鋭さが垣間見えて面白いが、やっぱり上海時代の自伝的内容がバラードのルーツという点でいちばん興味深い。あと、「『グレイ解剖学』が20世紀最大の小説である」には笑った。
読了日:6月29日 著者:J.G.バラード
乱視読者のSF講義乱視読者のSF講義感想
ディッシュとかジーンウルフとか。
読了日:6月28日 著者:若島正
文学賞メッタ斬り! ファイナル文学賞メッタ斬り! ファイナル
読了日:6月28日 著者:大森望,豊崎由美
ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)
読了日:6月22日 著者:サミュエルベケット
かくしごと(1) (KCデラックス 月刊少年マガジン)かくしごと(1) (KCデラックス 月刊少年マガジン)
読了日:6月21日 著者:久米田康治
第七女子会彷徨 9 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 9 (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 8 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 8 (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 (6) (リュウコミックス)第七女子会彷徨 (6) (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 (5) リュウコミックス第七女子会彷徨 (5) リュウコミックス
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 4(リュウコミックス)第七女子会彷徨 4(リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 3 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 3 (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 2 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 2 (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
第七女子会彷徨 1 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 1 (リュウコミックス)
読了日:6月20日 著者:つばな
アジアの岸辺 (未来の文学)アジアの岸辺 (未来の文学)感想
どれも面白い短編集だが、「本を読んだ男」「話にならない男」なんかはひときわよい。「降りる」もホラーで救いのない感じがいい。オチはないが。「リスの檻」はディッシュの代表作だが、流石にテーマ・手法的に古びているんじゃなかろうか。
読了日:6月16日 著者:トマス・M.ディッシュ,若島正
マンガ・エロティクス・エフ vol.74マンガ・エロティクス・エフ vol.74感想
つばな特集。
読了日:6月12日 著者:山本直樹,つばな,御徒町鳩,ancou,松本藍,吉富昭仁,シモダアサミ,ソラノハル太,石黒正数,ツナミノユウ,中村明日美子,志村貴子,河内遙,浅野いにお,鬼頭莫宏,おがきちか
結晶世界 (創元SF文庫)結晶世界 (創元SF文庫)感想
ギアがかかる前のドストエフスキーっぽい読みにくさ。
読了日:6月9日 著者:J・G・バラード
後宮楽園球場 ハレムリーグ・ベースボール2 (ダッシュエックス文庫)後宮楽園球場 ハレムリーグ・ベースボール2 (ダッシュエックス文庫)感想
野球要素しかありません。挿絵で王さんの本塁打記録の時のハリー(めっちゃ高く跳んでるやつ)のパロディやってるのが一番受けた。あとメンチコピペ。
読了日:6月3日 著者:石川博品
ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)感想
『虚航船団』第二部を思い出さざるをえない。
読了日:6月3日 著者:小林恭二
スペシャル 1 (torchi comics)スペシャル 1 (torchi comics)
読了日:6月2日 著者:平方イコルスン
決してマネしないでください。(1) (モーニング KC)決してマネしないでください。(1) (モーニング KC)感想
円城塔推し漫画。理系ネタ。
読了日:6月1日 著者:蛇蔵
かぐや様は告らせたい 1 ~天才たちの恋愛頭脳戦~ (ヤングジャンプコミックス)かぐや様は告らせたい 1 ~天才たちの恋愛頭脳戦~ (ヤングジャンプコミックス)
読了日:6月1日 著者:赤坂アカ

読書メーター

『STAND BY ME ドラえもん』は「感動装置」か?

iseyan93.hatenablog.com

 いせやん氏(id:Iseyan93)の『STAND BY ME ドラえもん』エンディングについての考察が、やっぱり自分の中では腑に落ちなかったので、自分なりの感想及び解釈を書いておくことにする。
 そもそもの問題は映画の最後、スタッフロールと共に流れるエンディングの演出についてだ。
 このエンディング、先日のテレビ放送版ではばっさりとカットされてしまっていたのだが、実はとんでもないどんでん返しが仕掛けられていた。

メタフィクショナルなエンディング

 それは「今までの本編は全てドラえもんたちの撮影した劇中劇だった」という仕掛けである。具体的には本編シーンのNG集、昔のジャッキー・チェン映画や最近のピクサー映画に見られるようなものがスタッフロールと共に流れる演出であった。
 最後の最後に唐突に挿入されたこのメタフィクショナルな演出を巡っては賛否両論、どちらかと言えば「否」が多いようだが、一般的な「否」の反応としては、

「単なるピクサーの真似」

「最後の最後で今までの感動がぶち壊しにされた」

という2つが、ざっとネットを漁ってみて見つかる。
 しかし、いせやん氏はこれを「5人の物語」として成立させるための仕掛けだとし、このエンディングが始まってホッとした、と言う。
 だが、やはり納得出来ない。
 「5人の物語」と言うが、わざわざ映画で追加された「成し遂げプログラム」の存在や、ストーリーのプロットを考えると、ぼくにはこの映画は「のび太ドラえもんの物語」、あるいは「のび太の物語」として作られているように感じる。
 「成し遂げプログラム」については、ストーリーを円滑に進めるための小道具かつ原作や98年版の映画では明らかにされていなかった「ドラえもんが帰らなければならない理由」の具体化という一面もあっただろうが、のび太の世話を義務的なものから自発的なものへと変化させる友情の形成過程を尺の中で効率よく描くための手段だったとも思う。

 ストーリーも、採用されている短編はいずれも「のび太の成長」を描くものだ。

 だから、この映画は「のび太の物語」なんだと思う。普段の大長編は「5人の物語」かもしれないが、本作はまた異なる軸を持っている。

 さて、少し話が逸れたが、エンディングについて。
 実際、僕も昨年劇場で鑑賞し、このエンディングが流れた時には」
「最後の最後で今までの感動がぶち壊しにされた」
と思った。
 なぜ今になって、「感動の物語」だった映画を「偽物」にしてしまうのか?
 これはスクリーン上に展開された物語に本気で、マジで感動していた観客への裏切りではないのか?
 なぜ、昔の思い出の楽しさの中にずっと浸らせてくれないのか?
 なぜ、「夢」を終わらせ、「現実」へ帰らなければならないのか――

 ここまで考えたところで、ふと既視感を覚えた。同じように、「現実へ帰れ」という強烈なメッセージを投げかけられた映画のことを思い出したのだった。

 

エヴァ旧劇を思い出した

 ぼくが思い出したのは、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」の終盤、観客席に座ったオタクをスクリーン側から写した有名なシーン。

 このシーンは監督・庵野秀明からの強烈なメッセージだった。

 テレビ放送版で伏線や謎をほとんど丸投げして終わってしまった(これが意図的なものだったかどうかは微妙なところだ。今で言う「炎上商法」を狙ったフシもあったのだろう)エヴァだったが、オタクたちは考察をやめず、結局公的抑圧に負け、庵野秀明は丸投げしたTV版の最後2話を改めて作り直すことになる。

 シンジの「ねえ、夢って何かな?」の問いをきっかけにして、対話のかたちで「夢」と「幸せ」と「現実」が語られる。「都合のいい造り事で現実の復讐をしていたのね」「虚構に逃げて真実を誤魔化していたのね」「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせ」とレイは云う。画面には『エヴァンゲリオン』を観に劇場に来た観客が映し出されて「気持ち、いいの?」というテロップが出る。ここまでの物語の筋道を考えれば「都合のいい造り事」や「虚構」は、シンジが自分の中で幸福な思い出を反芻する事と解釈できなくもない。だが、僕達はそれを素直にアニメの事だと解釈すべきだろう。
 「じゃあ、僕の夢はどこ?」というシンジの問いに「それは現実の続き」とレイは応え、「じゃあ、僕の現実はどこ?」には「それは夢の終わりよ」と応える。夢は現実の中で見つけるべきものであり、「都合のいい造り事」が終わったところに現実がある。「それは夢の終わりよ」の台詞と同時に、ファンに悪戯書きをされたGAINAXの社屋、『エヴァ』の感想が書き込みされたパソコン通信の画面、そのプリントアウト、「庵野、殺す!!」の文字が表示されたモニターが、画面に映し出される。そして、巨大綾波の首から鮮血が迸る。すなわち、ファンがTVシリーズ終盤以降の展開を不満に思った事こそが「夢の終わり」なのだ(正確には、ファンと作り手のシンクロ率が落ちた事が、結果的に劇中の「夢の終わり」を招いたと云うべきかもしれない)。『エヴァ』の快楽原則の象徴たる綾波レイも、その身体が崩壊していく。皆、現実に帰れ。あまりにも直接的なメッセージだ。

WEBアニメスタイル_COLUMN 

  この強烈な「現実へ帰れ」というメッセージ、それと同じものをぼくは「STAND BY ME ドラえもん」のエンディングでも感じてしまった。

 

なぜ「思い出」は破壊されなければならなかったのか?

 本作が親層、つまりかつてドラえもんを見て育った大人層を対象にしていることは、「すべての、子ども経験者のみなさんへ。」というコピーからも明らかだ。

 彼らをかつての思い出へ、ノスタルジックな風景へ連れて行くこと。「ドラえもん」を通して、子ども時代を振り返ること、そして大人になった自分を見つめ直すこと。それが、本作のテーマであり、狙いでもあろう。

 だが製作陣は、観客に過去に安住することを許さない。最後の最後で、観客は自らの現実、自らの「大人」を、NG集というメタフィクショナルな演出によって意識せざるを得ない。映画で描かれた物語は全て虚構にすぎないことを、劇中のカメラは痛切に物語る。

 「エヴァ」では直接観客を映し出す、つまり直接「現実」を露呈させていたが、「STAND BY ME」では、劇中劇というワンクッションを置きつつも、逆説的に「現実」を浮き彫りにしている。これは、物語に深く感動し、感情移入していた人ほど効果が高い演出だ。だからこそ、製作陣は「意地悪」だと思う。

 映画が終われば、夢も終わる。夢が終われば、現実に帰らなければならない。

 夢は「都合のいい造り事」でしかない。

 劇中で、未来ののび太が、子ども時代ののび太に向かって「ドラえもんは、君の、ぼくの子どもの頃の友達だからね」と言う。

 かつて見た「ドラえもん」は子ども時代のものだ。今大人になって、ひょっとしたら子どもを連れて映画館に見に来ているかもしれない。そして、映画を見て、子ども時代のことを思い出すかもしれない。

 でも、もう「ドラえもん」は観客のものではない。観客は大人だ。「ドラえもん」は子どもの頃の友達であって、今の友達じゃない。大人は大人であって、仕事なり家庭なり、現実に戻っていかなければならない。思い出の中にずっと住み続けるわけにはいかない。

 そんな製作陣からのメッセージを、ぼくは感じ取ってしまった。

 この年になってまでドラえもんを引きずって、毎年映画も見に行って、こんな文章まで書いているぼくにとって、正直すごく残酷な言葉だった。

 さっきの「否」の意見のように、「単なるピクサーの真似」であったらどれほど良かったことか……。

 

 この映画はただ金を払って「ドラ泣き」するための「感動装置」ではない。

 大人はもう子どもには戻れない、そのことを痛切に突きつけてくる残酷な、しかし単なるお涙頂戴で終わらない、よい映画だと思う。

 

 

 

  

 

 

 

 

『ひみつ道具博物館』に見る『大長編ドラえもん』の極北 

 2012年公開の映画ドラえもんドラえもん のび太ひみつ道具博物館』は様々な面で異色な作品であった。冒険感の希薄、明確な悪人の不在、普段取り上げられることのないドラえもんのび太間の友情を主軸としたテーマ……。

だが、私含めドラえもんファンは今までの『大長編ドラえもん』にはなかった面白さを感じ、目からうろこの落ちる思いだったことであろう。

本稿ではその特異性を『大長編ドラえもん』シリーズ全体の流れの分析とともに述べる。

大長編ドラえもん』の傾向

 そもそも通常の漫画『ドラえもん』は金曜日の19時から放映されているTVシリーズの印象そのままの生活ギャグ漫画である。ぐうたらな少年・のび太のもとへやって来た22世紀の猫型ロボット・ドラえもんがポケットから出す珍道具によって巻き起こされる事件を描くことが主で、作者自身も

「主題は、その珍道具が日常生活に巻き起こすナンセンスな影響にあります」*1

と述べるように、のび太たちの過ごす日常空間を基盤とした物語である。

 だが『大長編ドラえもん』では非日常的な舞台が設定され、そこにのび太たち登場人物が投げ込まれる構造になっている。例えば第1作『ドラえもん のび太の恐竜』では恐竜が栄える古代、第2作『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』では地球から遠く離れた開拓星が舞台になっており、この他にもジャングル、魔界、海底、地底、夢の中……など、基本的な非日常的舞台は網羅していると言っても過言ではない。

 この非日常的舞台の中で、のび太たちは命を懸けた冒険をし、ゲストキャラクターとの友情を深め、最後にはまた日常へと再帰していく。これが一般的な大長編ドラえもんのフォーマットである。

 最後に述べた「最終的な日常への回帰」が、通常の連載における『ドラえもん』と『大長編ドラえもん』の断絶を埋めるものとして、最も重要である。作者自身が『大長編ドラえもん』での約束事として

「どんな大事件が起きても、それはなるべく仲間内で解決し、回りの一般社会に、一切影響を残さないということです。これはそもそもドラえもんシリーズが『日常性の中に乱入した非日常性』の面白さを狙って描かれているからです。つまり、どこにでもありそうな町の、ありふれた家族の中でこそ、ドラえもんや彼のポケットの道具が目だって活躍できるわけで、この環境の日常性は絶対に壊すわけにはいかないのです」*2

と語るように、日常性の絶対的保障があるからこそ非日常的空間での同一キャラクターの存在に違和感を感じさせないのである。またこれは逆説的だが、同時に非日常的活劇が日常性を補強してもいる。

 大きな括りでの『ドラえもん』に、空き地や学校といった日常を舞台にする『ドラえもん』と、宇宙や海底などを舞台にする『大長編ドラえもん』が同居できているのは、帰るべき場所としての日常が保証されているからなのである。 f:id:ginjari:20150812002628j:plain

ひみつ道具博物館』の異色性

 2012年公開『ドラえもん のび太ひみつ道具博物館』が異色なのは、先に述べた『大長編ドラえもん』のフォーマットにことごとく反しているからである。その相違点を3つにまとめると、

①冒険感が希薄で非日常性が薄いこと

②明確な悪人が存在しないこと

③(ゲストキャラクターとではなく)ドラえもんのび太間の友情が主軸であること

である。

 まず①冒険感が希薄で非日常性が薄いことであるが、本作の舞台はあらゆるひみつ道具が展示されている未来の博物館「ひみつ道具博物館」であり、のび太たちは基本的に博物館内でしか行動しない。活動範囲の狭さは『大長編ドラえもん』中最高である。また作中の展開も、舞台に沿ってひみつ道具を起点としたものがほとんどであり、通常の『大長編ドラえもん』における展開とは毛色が違う。普段であれば恐竜ハンターや地底人、異世界のロボットなど、「非日常的」な人物と環境が織りなす事件の中で物語は展開するが、本作『ひみつ道具博物館』では、通常の『ドラえもん』で馴染み深い「ひみつ道具」に主眼が置かれ、登場する人物の動機や環境が全てひみつ道具に関係・依存するものであり、非日常性が希薄になっている。

 ②明確な悪人が存在しないことについては、本作のドラえもん一行共通の敵に該当する人物は、ひみつ道具博物館の怪人・怪盗DXであるのだが、彼とドラえもん一行の対立の原因が「ドラえもんの鈴が盗まれたから」「ひみつ道具博物館の展示品を盗もうとしているから」であり、世界征服や密猟など、大それた野望を持っている訳ではないことがその印象を与えている。

 また、のび太たちが傷付けられる、あわよくば殺されてしまう、といったスリリングな展開も本作には存在しない。怪盗DXは怪盗らしく(?)自らの手を汚さないことにしているのか、ひみつ道具を用いて盗みの邪魔の排除はするものの、その行動は水鉄砲での足止めや照明での撹乱など、直接的な危害を与えるものではない。地球の全てを洗い流してリセットする「ノア計画」を企てた天上人や、ロボットの大群で街を焼き尽くした鉄人兵団などを相手取ってきた過去の『大長編ドラえもん』と比較すると見劣りするのは否めない。*3

 ③ドラえもんのび太間の友情が主軸であることについてだが、通常の『ドラえもん』では度々描かれてはいる。有名な最終回「さようなら、ドラえもん」や未来世界から帰ってきたドラえもんを迎える「帰ってきたドラえもん」、忙しいドラえもんのために敢えて一日だけは助けを呼ばないと決めたのび太の根性が光る「ドラえもんに休日を」など、どれも珠玉の名作揃いである。

 だが、通常の『大長編ドラえもん』ではゲストキャラクターが存在し、彼らとの友情を描くことが優先されるため、ドラえもんのび太間の友情が描かれることはまずない。過去の一部作品ではそれほど濃い交流の描かれていないキャラクターとも強引に友情を感じさせる描写がなされ、不自然さを感じさせるものもあるほどである*4

 本作では盗まれてしまったドラえもんの鈴を物語の発端、なおかつ全体のキーアイテムとして配置し、その鈴にまつわるドラえもんのび太の邂逅直後のエピソードを挿入することで、自然な感動を与えることに成功している。

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ひみつ道具博物館』は異端=駄作か?

 以上3つの観点から『ひみつ道具博物館』を見てみるとその特異性が浮き彫りになる。だが私が述べたいのはこの特異性が作品としての面白みを全く損なっていないこと、いやそれどころか増してさえいることである。

 まず、③での感動は通常のゲストキャラクターとの感動とは種類の異なる感動である。彼ら二人には、他のゲストキャラクターにはない時間の積み重ねがある。ある種外部依存的な蓄積ではあるが、それを承知している観客は、スクリーンに映し出されている物語と、普段テレビで見る二人の日常とを自然に重ねあわせる。だからこそ感動はより深いものとなる。

 それを可能にしているのが、①での舞台の矮小化である。敢えてゲストキャラクターを全面に押し出さず、作品の内宇宙的空間を舞台にすることで、通常の『ドラえもん』内の日常をより展開しやすいものにしているのである。②ものび太たち全員が危険に晒されるのではなく、ドラえもんだけが鈴を盗まれるというミニマルな危機を抱えることで、鈴にまつわるのび太とのエピソードが展開しやすくなっていると言える。

ひみつ道具博物館』は『大長編ドラえもん』の極北である

 このような特異性をもって、私はメインスタッフ・声優陣が一新された2006年以降の新体制『大長編ドラえもん』の総決算としてこの『ひみつ道具博物館』を位置付けている。

 そもそも私は大長編を3つの時期区分に分類している。

 まず、原作者である藤子・F・不二雄が存命で、映画脚本と漫画版『大長編ドラえもん』を手掛けていた第1作『のび太の恐竜』〜第18作『のび太のねじ巻き都市冒険記』を第1期とする。

 次に藤子Fが亡くなったものの、引き続き同様のスタッフ陣と藤子プロで続編を制作した第19作『のび太の南海大冒険』〜第25作『のび太のワンニャン時空伝』を第2期とする。

 最後に、メインスタッフ・声優陣が一新され、いわゆる「水田ドラ」体制で制作され、現在も続く第26作『のび太の恐竜2006』〜を第3期とする。今話題にしている『のび太のひみつ道具博物館』は第33作に相当するため、第3期の作品である。先の言葉を言い直すと、私は第3期『大長編ドラえもん』の総決算としてこの『ひみつ道具博物館』を位置付けているのである。何故か。それを今から述べよう。

 まず第3期の特徴として、リメイク作品の制作が挙げられる。『のび太の恐竜』から始まり、『魔界大冒険』、『宇宙開拓史』、『鉄人兵団』、『大魔境』、そして来年2016年公開予定の『日本誕生』など、第3期に制作される11作の内約半分の6作が過去のリメイク作品である。

 第2期から第3期への移行段階で、メインスタッフも声優もほぼ総とっかえが行われているのだから、第3期以降のアニメ『ドラえもん』とそれ以前の『ドラえもん』は別物であって良いはずである。つまり、この時点で第3期『大長編ドラえもん』は『ドラえもん』のキャラクター・設定だけを借りた一種の2次創作物であるはずなのである。

 この継続性は第1期から第2期への移り変わり、即ち原作者たる藤子Fの死によっても一度危ぶまれているが、「映画」というメディアの特質上、原作者一人の創作物ではあり得ない訳であり、そういった意味で完全な断絶はメインスタッフの継続によって免れていた。  だが、第3期では訳が違う。メインスタッフも変わり、声優陣も変わってしまえば、普通作品は同じ皮を被っただけの「ニセモノ」になってしまう。だからこそ、その継続性を取り繕うために、旧世代の取り込みを目論んだリメイクと完全オリジナル作品を交互に制作しているのであろう。

 この観点から、私は第3期『大長編ドラえもん』は藤子F存命時の第1期『大長編ドラえもん』の二次創作物的性格を色濃く持っていると考える。

 第3期ではセルフパロディやファンしか気付き得ない小ネタなどが度々盛り込まれているが、これも単純なファンサービスとしてではなく、二次創作的性格の証左であると考えることもできるだろう。ドラえもんが読んでいる本を見て、「あっ、ドラヤキ百科やん」と気付けるマニアが全国にどれだけいるのか。狭いコミュニティ内でしか通じ得ない言葉を使いたがるオタク的なクローズドな世界が透けて見える演出が第3期からは散見されるようになった。

 そして、この『ひみつ道具博物館』である。内宇宙的な舞台やストーリー全体もそうだが、背景にこれでもかと細かく描かれるマイナーなひみつ道具の数々は、明らかに「内向き」な視点を意識した演出であると言えよう。オープニングテーマの『ドラえもんのうた』前のプロローグで、最後にのび太が「ドラえも〜ん」と叫ぶ第1期からのお約束の意趣返しで、本作ではドラえもんが「のび太く〜ん」と叫んでさえいるのだから、本作は第3期の二次創作的性格の極北点と呼ぶべき作品であろう。

 以上が私の主張である。

 だが私は初めに述べたとおり、『ひみつ道具博物館』に『大長編ドラえもん』の新たな可能性を見た。今後同様の路線での作品を作ることができるのかは分からないけれども、ただよりよい作品を世に出し、末永く『ドラえもん』が続いてくれればそれで良いと思う。

 私にとって『ドラえもん』について語ることは実存について語ることに等しい。それだけに『ドラえもん』が無くなって、私が老人になった時語る言葉を失ってしまうのが怖いのだ。こんな人間は少ないだろうけれども、私一人ではないはずだ。今後も『ドラえもん』が、そして藤子・F・不二雄が読みつがれていくことを私は切に望む。  

*1:藤子不二雄自選集4 ドラえもん ナンセンスの世界2』

*2:『フィルムコミック のび太と夢幻三剣士下巻』

*3:これは藤子Fの戦争体験に起因するものであっただろう。鉄人兵団のラスト、「即席落とし穴」で身を隠しながら鉄人兵団の到来を待つシーンは特に戦場的だ

*4:これは新体制になってから顕著に見られる。『人魚大海戦』などもそうだし、全体的に「泣き」についての過剰な演出が目立ち強引さが目につくのは確かである。